ヨコハマ・フィールドワーク/都市のミームの「フラヌール調査の一例、またはフィールドワークの断面について」
「フラヌール調査の一例、またはフィールドワークの断面について」の書込一覧です。
フラヌール調査の一例、またはフィールドワークの断面について
【閲覧数】2,942
2009年08月21日 02:39
「都市のミーム」プロジェクトのひとつでありますフラヌール調査は、四月から現在まで断続的に行われていますが、ここにその「断面」をご紹介いたします。

以下のメモは、先日(8/18)自らフラヌールと化しつつフラヌール調査を行った際の「抜粋メモ」です。なんとなく調査の体温が感じられるのではないかと思われます。
フラヌールと化すとき、撮影者の眼差しは「盗視者」ではなく「共感者」になります。子供、サラリーマン、ホームレス等々に向けられたファインダーは、いわば片想いの切なささえ帯びてきます。

そんな不思議な感覚を皆さんと分ちあいたいと考え、近日中に「合同フィールドワーク」を行いたいと思っています。まずはデジカメを持ってフラヌールする「フラヌールフォトプロジェクト」から参加者公募を行う予定です。
どうぞお気軽にご参加ください。よろしくお願いいたします!


・………………………

◆ フラヌール調査撮影:抜粋メモ
                     作成:有吉達宏

【TAPE13 メモ】

0~       Y150イベント施設前。休憩している草刈り
の若者(男)、おじさん。
        足が痒いのか手前のお兄さんが雑談をしながら執
拗に足を触っている~0710(触覚のフラヌール)
0728     信号待ち家族。子供、母、父。子供団扇を手に持ち
触って遊んでいる。~0803(触覚のフラヌール)
0830     自転車タクシーから身を乗り出している若い運転
手。 (見立て、私空間、結界意識)
0925     信号待ちサラリーマン。一瞬つま先を上げる。(身
体的運動のフラヌール)
1015     信号待ち子供と母親。子供が足首を曲げ体重を母親
に預け遊んでいる。(待ち合わせの身体的運動,触覚のフラ
ヌール)
1116     信号待ち。母親の周りをぐるぐる回る少年。(身体
感覚、平均感覚への興味、遊び)
1149     信号待ち白シャツサラリーマン。キョロキョロと周
囲を見ている。せわしない印象。
        →去っていく後ろ姿。やはり周囲を見渡しつつ遠
ざかっていく。(純粋フラヌール)
1500     信号待ち女性。日傘の柄を指で軽くたたき遊んでい
る。(触覚のフラヌール)

<象の鼻 芝生>

1648     女性ポールに腰掛けて遠くを見ている。(観察、も
しくはアフォードされる感覚に佇み遊んでいる)
1804     子供、道の脇のコンクリートの段差を歩き飛び降り
る。子供がたくさんいて、あちらこちらで段差、石などを遊び道具
として活用している。
1954     家族連れの麦わら帽子の父親。家族を見ながら周囲
もきょろきょろと観て観察もしている。(隙間に現れるフラヌール)
2115     海を観ているサラリーマンの後ろ姿近景。頭をキョ
ロキョロと動かしている。
       その動きが速いので観察しながら、色々と考えが頭
をよぎっているのかもしれない。(同時多発的欲望、観察と思考の錯乱)
3131     子供3人と母親3人の行動の差。両者と
もフラヌールしているのだが、大人組は動きがのろい。(フラヌー
ル、観察の在り方、年代の差)
3437     上着を片手に、ズボンを片方膝まで上げて歩く作業
服を着た初老のフラヌールしている男性。
       観察者であるフラヌールは自分の身なりにそこまで
気を配らない傾向にあると思う。(自我を忘れ気味な観察者、フラ
ヌール)
3631     芝生をもぎ取り、海へ放つ男の子。高度な遊びをし
ている。手触りと海の広さ、波の動き、ものの比重の差による浮力
を楽しんでいる。
       波に浮かぶ芝生のカット。防波堤際の汚物の澱み。
(観察と応用、自我、意識の芽生え)
3847     子供が境界線を歩き遊んでいる。(子供の遊び道具
として都市を観る視点)
4032     二人の淑女が散歩している。一人が立ち止まると、
もう一人も立ち止まる。同じ方向を眺めるが二人とも観ている景
色、抱く感覚は違う。
       さいしょの人は発見者であり何かを感じているはず
だが、もう一人の合わせてみる方は観察をしていない様子。(複数
フラヌールの在り方)
4353     子供と母親が岸辺で海を眺めている。子供の方がよ
りしっかりと観察しているようにみえる。
       (年齢による観察の違い。ダイレクト、記憶と言う
ワンクッション、膜の介在)
4540     こどもがコンクリートの腰掛けの上に昇り木の葉に
手を伸ばすが届かない。そばにいる母親が葉を掴み子供に手渡す。
       子供連れの大人に撮って、子供は感覚器官の拡張と
もとれる。子供は未知として受け入れる割合が高く、
       もしかしたらこういう場合の大人は、既知の感覚の
再認識をしてたのしんでいるのかもしれない。
       子供は10メートル程度歩く毎に、何かを発見
して立ち止まる。(大人の感覚器としての子供、単独フラヌールの
中にある意識、
       無意識の在り方を現しているようだ)
4948     芝生と海辺の間の比較的広い場所を歩くフラヌー
ル。こういう場合遠くのものに対して観察している場合が多い。
       この時は質感的、肌理の観察はほぼ無いと思われ
る。空間の観察をしているかもしれない。風も強くなる場合が多く、
       より体全体の皮膚感覚が刺激を感じているのではな
いだろうか。(空間の大小により導かれる観察の在り方)
5052     歩き始めと思われる子供。歩くときは地面を凝視
し、立ち止まると周囲を観察する。スイッチが切り替わるようで、
       目の前の物だけに集中する短絡的な観察の仕方をし
ている。(子供の観察のかたち)


【TAPE14 メモ】

0~      芝生。ヒキの映像。海へたどり着いたフラヌールが
静止している。(忘却の世界へ向かうフラヌール)
0341     持っている風船が割れた少女。数秒静止する、思考
停止、無意識的な場、現象の観察
       (突発的思考停止による純度の高いフラヌール)
0501     芝生の中の石の腰掛けに座る女性。裸足になり石の
感触を感じている。うつむいて眼を閉じている。
       場を、観るのではなく感じている。眼を瞑ることで
瞑想的な状態に入ろうとしている。皮膚感覚に絞った観察。
       閉じる動作と開く動作を同時に行っている。儀式的
な観察の在り方。無意識を意識する。相反する行動を同時に
       行うことによる入れ子式空間への陶酔、旅。(内的
意識、世界へのフラヌール。入れ子構造)
0522     フェリーの屋上席で立っているフラヌールたち(意
識的陶酔、意識、無意識の入れ子式構造、同居)
0636     海を眺める中年夫婦。男性遠くを眺めている、女性
うつむいている。
       男性、場への陶酔。女性、場と自己の内的世界への
陶酔。(場へのフラヌール、場にいる自己へのフラヌール。
       外的陶酔と内的陶酔の対比)
0727     腰掛けに座る老人男性。ふと周りに眼をやる。(定
点的陶酔、意識的観察)
0831     カフェへ入る老人男性。(意識と無意識の同居的動揺)
0914     精神異常者と思われる男性フラヌール。(過度の陶
酔、彼岸の存在。場の変異、移動する側の入れ子構造)
0952     海に向いてうつむいている男性。(場に感化されて
内的意識へと陶酔している。
       場が内的世界への誘導を行っている。内的フラヌー
ル。内的移動)
1029     自転車に乗り、八の字に走る女の子。速度の上昇に
よって起こる情報裁断による情報のホワイトノイズか、平均化。
       流れる場の感覚。場が混ざり液体状になる。自動
車、電車から眺める視認できない風景、速度が情報を裁断、平均化する。
       点が線となり重なり面となり、膜となる。現実的海
面の表れ。(場の液状化、海、浮遊。瞑想的フラヌール、忘却への
誘い。)
1158     フェリー乗り場の老人男性二人と女性。男性綱を触
り感覚的フラヌール。女性、場に浮遊する自我、場からの離脱。
       場から離れ迷走する自我=意識=自我の芽生えによ
る観察からの遊離。(自我=意識と無意識行動の対比関係)
1530     海辺でケータイを眺める女性。意識と無意識の乖
離。無意識、場を感じている。意識、電子空間をフラヌール。
       (電子空間が起こす意識と無意識の剥離現象)
1603     遠ざかる観光客、一定方向に向かって遊歩する集団
を思わせるが、実際は意識的行動。(無意識的集団行動の不可能性)
2249     遊歩する夫婦。複数のフラヌール集団は、動線が定
まらず交じる。(フラヌール団体と観光客の団体との見分け方)
2341     ベビーカーをひく男性、横を歩く子供。ベビーカー
の幼児、精神的フラヌール。
       子供、身体を伴うフラヌール。男性身体を置いてき
たフラヌール(成長によるフラヌールの3段階変化)
2645     歩きつつ、立ち止まり、歩き、また立ち止まるフラ
ヌール。観察に目的があるフラヌール。
       照準を絞った無意識的観察。次のカットも同じよう
なフラヌール。
       (立ち止まるフラヌール。発見を意識している)
ZAIM付近路上

2937     カムフラージュしているホームレス風男性。(カム
フラージュ、都市の見立て)
3059     ケータイを観ながら歩く女性。意識と身体の剥離。
意識と無意識の剥離。(電子空間が起こす意識と無意識の剥離現象)
3238     路上でたまるサラリーマン集団。勧誘空間としての都市
(公共空間の私有化、公共空間=官有空間)
3347     都市を歩くフラヌール。歩みが早い。意識の割合が
高い。もしくは錯乱度合いが高い。(浅い無意識行動)
3623     信号待ちのバイカー郵便配達員。ふいに訪れる自由
時間。周囲を観察しつつ、袖をまくっている。
       (エスカレーター的隙間時間に現れるフラヌール)
3744     待ち合わせ女性。鼻を触る。待ち合わせとして静止
している時、皮膚感覚が敏感になる。(静止することで鋭さを増す
皮膚感覚)
4057     ポールを木と見立てている男性二人。木と見立てて
いるとしたら、触覚的なつるつるの感触が、
       意識の錯乱を起こさせているかもしれない。(見立
て、見立てが産む意識錯乱の兆し)
4136     カフェの屋外席でケータイで話す男性。水を飲む。
(電子空間が起こす意識と無意識の剥離現象,動物性)
4929     車いす女性と車いすを押す男性。男性は周囲をよく
見るが陶酔とはかけ離れた意識的観察。車いす女性はフラヌール。
       (陶酔的観察と意識的観察の対比)

球場公園内

5104     入り口付近。ケータイで話しながら歩く女性。身を
屈めている。(電子空間が起こす意識と無意識の剥離現象)
5132     公園のベンチでくつろぐ人々。(意識と無意識の混
在、入れ子構造)


8月18日、午後2時から7時頃までの調査より

書き込み数は4件です。
[ 日付順 ] [ 投稿者順 ]
Re: フラヌール調査の一例、またはフィールドワークの断面について
【返信元】 フラヌール調査の一例、またはフィールドワークの断面について
2009年08月29日 03:55
 「都市のミーム」プロジェクトのひとつでありますフラヌール調査は、四月から現在まで断続的に行われていますが、ここにその「断面」をご紹介いたします。

以下のメモは、先日(8/13)自らフラヌールと化しつつフラヌール調査を行った際の「抜粋メモ」です。なんとなく調査の体温が感じられるのではないかと思われます。
フラヌールと化すとき、撮影者の眼差しは「盗視者」ではなく「共感者」になります。子供、サラリーマン、ホームレス等々に向けられたファインダーは、いわば片想いの切なささえ帯びてきます。

そんな不思議な感覚を皆さんと分ちあいたいと考え、近日中に「合同フィールドワーク」を行いたいと思っています。まずはデジカメを持ってフラヌールする「フラヌールフォトプロジェクト」から参加者公募を行う予定です。
どうぞお気軽にご参加ください。よろしくお願いいたします!


・………………………

◆ フラヌール調査撮影:抜粋メモ
                     作成:有吉達宏

海の近くを撮影する事は「都市」という条件から離れるのではないかという気持ちはあったのですが、横浜と言う地理の固有性を現す為に有効だという考えと、ほとんどの人がフラヌールしているということへの驚きと、そんな状況になぜ横浜にアートスポットが多いのかという疑問に得心がいったことから、この場所で撮影をしようと思いました。

・場所:象の鼻付近



<感想>
 海岸付近にいる人々は皆フラヌールしているように見えました。
そんな風景、人々を観て、フラヌールについて腑に落ちるところがあるように感じました。横浜の海岸付近にはアーティストが創ったであろう造形物も多く、芝生には人々が自然体で佇んでいました。

 僕にとって海とは、とても惹かれるのだけれど、実際に近づくと恐怖も同時に感じるものです。
それは海が大きすぎるのと、泳いで行ったとして行き過ぎたら帰って来られないことも関係していると思うのですが、
それとは違う何かも関係しているのではないかと思います。
中島さんとの話で、100%フラヌールしている人はおかしくなっている人なのではないかという意見が出ました。
それと海の関係は近いように思えました。
しかし海にどれだけ入っていっても、本当の意味で海(海に惹かれる源)に近づいているかどうかはわかりません、
より深く海へ潜ろうとするダイバーと、制作に没頭する芸術家とで、果たしてどちらがバーチャルの世界を潜っているのかわかりません。

 海を眺める人はどこかしら物悲しげな表情をしているように思えます。海を見ている人は、別の何かを感じ、探している、もしくは見据えているのではないだろうかと考えました。そして、都市にいながら、都市にいる目的を忘れたとき、その人には都市という場はどう映っているのだろうと思い、ベンヤミンのパサージュ論の中に

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ヴィクトール・ユゴーについて。「午前中、彼は部屋にいて仕事をする。午後になると、街を徘徊して仕事をする。彼は乗り合い馬車の屋上席、彼が名づけるところによれば移動式バルコニー席(バルコン・ルーラン)が大好きであった。この席から彼は心ゆくまで巨大都市のさまざまな相貌を研究する事ができた。彼は、耳を聾するパリのざわめきが海と同じ効果をもたらすと主張していた。」エドゥアール・ドリュモン『青銅の彫像または雪の彫像』パリ、一九〇〇年、二五ページ(「ヴィクトール・ユゴー」)[M8a,3]

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と書いてあった事を思い出し、ある人が都市でフラヌールする時には、都市はもしかしたら海に変貌しているのではないかと思いました。
しかしここでの海とは、「野生の思考」が感じる世界であって実際の海とは違うものであると思います。
それは海を感じて人が惹かれる源のある世界であり、僕の主観で言えば、温かいボートの上で身を屈めながらチャプチャプと鳴る水音に耳を澄ませた時に感じるものの先にもその世界への繋がりがあるように思えます。

 フラヌールの状態は、子宮の中で半分意識が起きている状態に近いような気がして、その時感じた音の招待を外の世界で確認しているようにも思えます。以前中島さんのメールに動物も遊びをすると思うとかかれていたことを思い出して、動物が遊ぶときの世界とのあり方とフラヌールのあり方というのは近いのだろうなということにも確信を強めました。覚醒したての意識のレベルは動物も人間も同じ段階にあり、そのとき感じた世界を人間は忘れ、そしてふいに思い出しているのではないかと思います。フラヌールを見ていると、子宮からすっと出てきて都市を歩き始めて、そして何故かおじさんになっていたりするという奇妙さを感じます。外見と内面、行動にギャップがある状態、服を来ている事に違和感を覚える状態、本人がそれを忘れているであろうと思われる状態のように感じます。

 自然の残る砂浜と違い、都市の海では座る為の場所が用意されています。
何も無い田舎だったらその場で座っているところだが、都市の港であるが故に歩かざるを得ない状況になり、遊歩者が増えているようにも思えました。都市においても座れる場所が少ないように思い、それは都市の遊歩者を産みやすくしているのではないかと思いました。

子供の印象は、都市部と比べてもあまり大差がないように感じます。子供の立場からは、人がうごめくビル街も、波の音が聞こえる波止場も、どちらも同じくらい面白く感じるのではないでしょうか。犬は欲求のままに行動します。その犬の行動に引っ張られている飼い主を見るのは面白いです。飼い主が子供だった場合、予測不可能な動きをしながらどこまでも行ってしまいそうです。



<素材を観た感想>

象の鼻パークは2009年6月2日にオープンしたばかりの場所で、整備がいき届いた感じの良い場所でした。
夏休みという事もあって子供連れの家族やカップル等の老若男女でにぎわっていました。
芝生の中で石の腰掛けに座り海を眺める人々は、野生を奪われ枠にはめられてしまったようにも見えますが、
そうなったことによってより海というものの存在が際立ち、
海を見る人々の目はいっそうキラキラしているように感じられました。

海のもつ癒しの効果が感覚を解放させているように感じられ、長めの芝生の色や感触などがよりリアルに感じられるようでした。
海を眺めつつ、その場の空気にしっとりと浸り、皆の感受性が高まっているように感じられました。

皆の歩くスピードがとても遅く感じられました。
その分、過剰に周囲の環境に意識が向けられていて、
一歩一歩の感触を噛み締めているようであり、目に映る物の細部にまで関心がいっているようでした。

腰掛けに座る人と歩く人の対比が面白い映像を撮りましたが、歩いている人のスピードは通常の都市のスピードよりも遅く、
対比が弱まっているというのが特徴的ないい味を出しているように感じられました。

【映像メモ(中島さんのSDカード式ビデオカメラにて撮影)】

・象の鼻付近のフェリー乗り場を海の方にカメラを向け撮影

 
28     海を背に腰掛けに4人座っている 手提げ鞄を揺らしながら歩く男性。重心が少し後ろにかかった状態でゆったりと大股で歩いている。腰掛けに座っていた男性が立ち上がり連れ合いに挨拶して歩き始める。こちらも重心は後ろにかかり気味。フラヌールの重心の在り方にも段階があるように思われる。重心が後ろにかかり気味なのは浅い陶酔。重心が前のめりなのはより進んだ陶酔。重心が垂直なのはより陶酔度の深いフラヌールのように思える。(フラヌールの重心の在り方から考える陶酔の段階。)

36     キョロキョロと周囲を眺めつつ歩くフラヌール。少し肩に力が入った状態で歩く男性、海辺を歩きながらでも日常が消える事はなくしこりのように残存しているものなのだろう。その後ろを歩く女性は元気よく手を振って歩いている。ナメクジの残す粘液のように、クッキーを焼いた香ばしい香りが街に流れるように過去=記憶を引きづりつつ環境に陶酔しているフラヌール(目的行動とは過去の連なりによって起きているものである気がする)

37     群衆。家族、老人、カップル、自転車をひき海を眺める人。立ち止まり海を見る女性二人組。年齢の離れた集団である家族が同じ速度で歩いている。それぞれの好ましいスピードは本来違うはずなのに同じ速度で歩いているのは何でだろう。子供は小学4年生くらいに見える。より小さい子供は家族を置いて四方に走り回り遊歩者となる。僕の記憶から考えると、この頃の家族旅行には、どこか物淋しさが現れ始める。家族という集団の社会においての小ささ。両親の大きさ等が見え始める年頃のように思える。子供にとって観察が意味を持ち始める年頃のように思える。家族旅行という目的の中で非目的の陶酔を求めるのだが、どこかでそれぞれを縛る糸のようなものが見え始める。両親に巻き付いた糸の断片を垣間見たりする。それぞれの暴露が始まる時期だろうか。(家族単位での共同フラヌールの状態。)

38     ヒキの画。肩の力が抜けた印象の人々。粒のような人影の足が動いている。両手が荷物で塞がれている人、その人の抱えているものはなんだろうか。触る事と引換に重さを手にしている。その重さの感触はどうだろうか。修験者のようにも見える。皆同じような速度で川が流れるように進んでいる。(手を塞ぐフラヌールに対する考察)

39     横から撮影。手前に歩いてくる白い服の女性フラヌール。海辺を歩くフラヌールは海以外のものにもよく観察の目がいくようだ。塩風に体重を預けつつ歩いている。風に触れる事で服がたなびき、空気の抵抗を感じられる。それによって皮膚感覚は刺激されて、感度が自然に高まっているように思える。髪を触る仕草には自己陶酔と場への陶酔がいりまじっているのだろう。腰を触り、海を眺め、陸を見つつ歩いている。(海辺のフラヌール)

42     少し寄った画。コンクリートの腰掛けに若いカップルが腰掛け戯れている。相手を触っているようで、自分を触っているようにも見える。人を喜ばせようとする仕草にも違った側面の要素を感じてしまう。ものに触れると場合と人に触れる場合との違いは、後者の場合は触れると同時に相手も触れているという意識をもつことへの理解の有る無しがあげられる。理解するにしてもしないにしても触れるという行為は相手があって初めて可能になる行為である。例えば、巨石に手を触れる時、同時に巨石が自分に触れているのだと考えると不思議な感覚に陥る。動いている方に主体性があるとは一概に言えない。ものの側が行動をアフォードしている場合もある。その境界は溶解していると考える方が妥当のようにも思える。カップルの後ろで犬を連れた少女が映っている動物も高度な意識を持ち生活しているのだが、何故か無邪気な子供のように思えてしまう。それは人間の立ち位置から見た偏見を越える事はできないのだが、犬側からもそれは同じ事で、互いに未知の受け渡しを行っているのだと考えられる。画面の端に何かを思い立ち止まるフラヌールが映っている。(カップルを見て考える触れるという行為への考察、人間社会においての動物の存在の立ち位置についての考察、フラヌールのアジール的存在価値)

43     掲示板を見ている夫婦。西日が差している。(無意識の陶酔)

44     座っていた家族立つ。少女が足をけだるそうに動かしている。その横で幼子が二人、靴を飛ばして遊んでいる。少女がまた腰掛けにゴロリと座る。父親は重心を前にかけ携帯をいじっている様子だ。母親は子供達の世話をしている。その前を自転車を押す老人男性フラヌール。年を増すごとに男女の違いはなくなっていくらしい。青年の集団が通り過ぎる。似た年齢で構成された集団は同じような速度で同調する事を目的として歩いているように見える。実際にある程度個々の目的は重なっているのだろう。もしくは重ならない事への自覚が焦りを伴い集団欲を産んでいるのかもしれない。もしかしたら集団として協調する為の訓練を本能的に行っているのかもしれない。ハイティーン時代が強制的に終わる事に抗う気持ちがありつつも、本能的に自らをハイティーンの終わりへ向かわせている事にも薄々気付いているような、そんな年代だと振り返って思う。社会的制約と本能的集団欲求は密接に関わっていると思う。(家族旅行にみられるフラヌールの様態、集団の組成と個人の対比)

45     去っていく家族。少女は手元の何かに注意を向け歩いている。年の若い少年は帽子を手に取りクルクルとまわして遊んでいる。話しながら寄ってくるカップル。男性は身振りを大袈裟にして話す。それに女性は応えながら髪を触る。向こうへ行くカップルの男性が手に持っていた小さなゴムボールを落とし、それを拾うことで重心が前方に崩れ、惰性で歩みが細かく、速くなる。(年齢、立ち位置に適した行動と突発的出来事に現れる逸脱行動)

46     腰掛けに座るおじさんと新聞を読んでいる男性。前を少年3人が通り過ぎる。幼い少年と少女が戯れつつ横切る。両親を伴い赤い服の子供フレームインしてきてクルリとまわる。もし座っている成人の二人が急に立ち上がり、子供が行った行動をそっくり真似たとしたら、それはただの奇人変人だと解釈されるだろう。(休息する人と、動いている人。年齢から来る適した行動の棲み分け)

・海辺を離れ都市部へ向かう

48     交差点。ヒキ。信号待ちで並ぶカップル、仁王立ちの男性。男性、ふと臀部を触る。(自己規定の隙間に現れる動物的要素)

49     路肩のイスに座っている少年、イスをさする、落ち着きが無い様子で父の方へ行く。母、イスに座り父の方を向きつつ、足で地面を軽くたたき落ち着かない様子で時計を見る、娘、足をばたばたさせる。水筒を振り回す。少年、イスに戻る、足を揺らす。立って看板の地図を見る父。父、家族の方へ行く。家族少し落ち着く。少年目線が何かを捉えて動く。
(家族旅行に見られる摩擦。子供の認識対象の転換の速さ、身軽さ)

50     自転車を降りデジカメで撮影する男性。撮影とは目的行動に含まれる。自発的なものか外部要因に従って撮影されるかによってその在り方は変わってくるが、様々な要素が混在している状態と考えて良いのだと思える。下を向きつつガラスの地面の上をヨタヨタと歩く大柄の男性フラヌール。滑稽な様子を見せるフラヌール。(写真をとるという行為について、滑稽さを見せる陶酔型フラヌール)

51     フェリーの屋上で話している女性3人。波のつくる定期的でかつ変則的なリズムに精神的マッサージを受けているようで、童心に帰っている、もしくは帰っている夢を見ている印象がある。巨大な亀の上に乗って散歩しながら雑談しているようにも見えてくる。中年カップルが加わる。背後の防波堤に息子を肩車する父と母が歩いている。(意識的陶酔。撮影者の見立て、もしくは妄想。場の持つ吸引力。場の隔たり。)

52     フェリー。ひいた画面。画面の真ん中で立ち止まる白い服の男性。観察の段階は、目をやる、立ち止まる、触るという単純な枠組みで捉えられる気もする。(観察の段階、目的が前出する陶酔とふいに立ち現れる陶酔、陶酔の段階の基本への考察と疑惑)


・より都市部へ


53     港から少し離れた交差点。向かってくる人々。海へ向かう人の顔色は無表情に感じられる。やはり海に近いので人々の動きに、どこか軽い印象があるように思える。サラリーマン風の男性二人。手がフラヌールしている。サラリーマン風の男性が集まり5人の集団になる。目立った動きは無い。手がわずかにフラヌール(目的行動と非目的行動の区分けを緩和させる場の持つ陶酔への誘い。手の仕草に現れる部分的フラヌール)

54.55    サラリーマン風男性背後から。握られた、半分握られた、そんな手の仕草にその人の日常への想像が始まってしまう。(手の仕草から読み取るフラヌール)

56     時間を持て余しフラフラする警備員。地面を靴でいじっている。(目的の感じられない時間に現れる無意識的遊び)

58     信号待ち群衆。ヒキ。髪を触る主婦。髪をつんつん引っ張って遊んでいるハイヒールの女性。じっと一点を見つめ静止している中年女性。腕組みをして前へ歩み寄る男性。信号待ちという目的意識が薄れた時間の中で、人は非目的行動をしている事が多い。(信号待ちという空き時間に対する考察)

5960    バス停で待っている女性二人。ケータイを見ながら足を組み替えたり手で髪をかきあげたりしている。時折バスが来ているか確認する為顔を上げる。(非目的時間とその中に現れる日常生活をする上で必要な注意を配る行動。非目的時間、時間のデッドスペースの扱い方。)

61     信号待ち女性。イヤホンをしている。身動きをせずに目線がうろうろとしない。無表情で遠くを見つめている。団扇を扇ぐ二人の女性、右側の女性は左手にハンカチを握っている。(イヤホンでの音楽視聴という空間への付加が生む情報裁断、あるいは一定の感覚の拡張)

62     犬2匹を連れた老人。自転車に乗っている少年が来る。信号待ちの間、少年はそわそわした様子で膝を掻き、犬を連れた老人と会話している。自転車のハンドルを握る手がどこか目的以外の何かをしようとしているように思える。人が動物を飼う理由には、動物的感性を失わないよう保ちたいという欲求もあるのではないかとも思える。コミュニケーションの潤滑油的役割も担っている。(ペットを飼う意味についての考察。少年の心情=未知についての興味。目的行動の中に含まれる言葉にならないもの、他者的存在への興味)

63     力無く背筋を曲げ、ゆっくり歩いて遠ざかっていく男性。考え込んでいるように見える。何を考えているのか、感じているのかは想像の域を出ない。信号待ちの老人。杖に体重をかけ下を眺め観察している。(感覚の個別性。他者という感覚器官、メディアの未知と価値への認識)

64     写真を撮っている男性。ベビーカーをそれぞれ押す女性二人と少年。少年は そわそわと落ち着きが無い。暇を持て余しているのかポールを触り、スキップをして、親の手を触り、そして自分の手を触れ合わせ、周りを眺める。(目的がある時間、何かを見い出そうとする時間)

65     信号待ち女性。疲れているのか両手に持っている荷物を片手に持ち替え下を見る。信号が変わる間際、周りを見渡す。目的行動の中にも非目的行動は垣間見られる。自覚のない場合はほんの瞬間の立ち現れであることから、記憶としては残らないのかもしれない。男性が歩き際ポールをポンと叩く。しかし、日々無意識行動を重ねる事によって、本能的に何かを蓄えているのかもしれないとも考えられる。(日常の中の一瞬、ふと周囲の環境に目を奪われる瞬間的陶酔)

66     横断歩道を歩く群衆。横断歩道を渡るという同じ目的の行動をしているのだが、一人一人さまざまな印象が見受けられる。本を呼んでいる少年。犬を連れた女性が犬に引っ張られて後ろを振り向く。犬の向かった方向に目をやるがこれといって何も見つけられなかったようだ。どこか目が冷めているようで、空ろな印象がある。(多様性、動物が産む未知への兆しと忘却)

68     信号待ち女性、ポールに手をついて横を向きポールをぱたぱたと軽く叩いている。その表情は険しい。信号が代わり歩き出す。(非目的瞬間的時間に現れていると思われる本意、本能)

69     バス停。イヤホンを長い時間をかけて解く男性。イヤホンを耳に掛ける段階に近づくと首を異様に動かし周りを気にする。時計を眺める。音響機械の調整をする。行動するべき事柄と、行動している本人とのズレが生み出す違和感。行動が達成される兆しを感じると行動しながら次の事柄について意識が向き始める。それが定まらない間の時間、どうともとれないような無意識的行動が現れやすい。(目的行動と次なる目的行動へ以降する間に現れる空白的意識。)

70     髪を手ですく女性二人。ポールに座る女性。犬の散歩をするおばあさん。信号脇のポールに座る女性。ポールに座る女性、ペットボトルで水分補給する際に目的以外の行動、髪をかき分ける、服を触る、顔を上げ遠くを見る、をとっている。個々に現れる目的行動を同時に捉えようとすると、雑多な印象で、ただの混沌に思える。ポールに座るという行為は都市空間を切り取り、私空間にしているという印象も見受けられる。それはポールを例えば切り株に見立てるような、即物的、動物的視点をもった行動のようにも思われる。契約が交わされ共有、官有化ているはずの都市空間において私空間を形成しているとすれば、そこで現れるフラヌール的行動は、ブリコラージュ調査の視点とも関わってくる。(目的行動を広げた視野で見るとコラージュのようにも思える。空間の見立て、私有化。場の認識の移動)

71     手前の若いカップルと奥の中年のカップル。奥の中年カップルの男性は片耳にイヤホンをして、周囲をキョロキョロと眺め、お腹を触り、腕を軽く触っている。(付加的音響効果による興奮作用、日常空間への陶酔の強化)

72,73,74     ポールに座る女性。ケータイで話しながら、大きめのハイヒールを脱いだり履いたりしつつ、手で鞄を触り、首を触り、などしている。電話をすると言う行為は身体的な部分などの使われていない部分が多く、無意識行動が多く現れる。例えば電話をしながら必死にメモをとっている人などは、非目的行動をしていることは少ないように思う。(電話をしている状態での非目的行動の現出について)

75     ケータイを見ていて信号が青になってもかなり遅れて歩き出す女性。歩き出してからもケータイを見つつ緩い速度で歩き、時々前方を見る為に顔を上げる。ケータイを見る事をやめると周囲を比較的大きな素振りで見渡す。内的な世界に没入していた分、周囲の環境の情報が新鮮みを帯びて鋭く感じられているはずだ。映画館をでると、感覚は刺激され興奮しているが、室内では空気が止まっていた事もあって、風などの感触が異様に過多に感じられる。その状況と似ているのかもしれない。きっと携帯に見とれている間、周囲の音は小さく感じられていただろう。バス停の女性、腕組みをして、遠くを見て、足下を見てと、興奮して観察している様子を見せている。(無意識的過度の情報裁断からくる、日常環境の情報過多への気付き)

77     信号待ちサラリーマン。目線がフラヌールして、少し体も上下運動をし興奮している様子だ。これは、無意識行動というよりも自己啓発行動に近い。自己啓発の中には水泳を勧めたり、ストレッチを勧めたり、リラックス方法を紹介したりなど、無意識行動と重なる部分があるように思われる。(無意識行動の必要性へのアジール的寛容。)

78     信号待ち女性。ヨリ。そわそわとせわしない様子で周囲をキョロキョロと眺め、肩にかけた鞄を担ぎ直し右手で鞄の紐を握り、左手で臀部に触れ、肩にかかる髪に触れ、腿に振れ、右手で前髪をかき分け左手で鼻を触り目を触り、こめかみを揉む。そして何事もなかったように前を向き、信号が変わり歩いていく。(無意識行動の過多と無意識故の忘却)


8月12
日、午後2時から18時半まで
フラヌール調査の一例、またはフィールドワークの断面について
【返信元】 フラヌール調査の一例、またはフィールドワークの断面について
2009年08月28日 13:47
「都市のミーム」プロジェクトのひとつでありますフラヌール調査は、四月から現在まで断続的に行われていますが、ここにその「断面」をご紹介いたします。

以下のメモは、先日(8/22)自らフラヌールと化しつつフラヌール調査を行った際の「抜粋メモ」です。なんとなく調査の体温が感じられるのではないかと思われます。
フラヌールと化すとき、撮影者の眼差しは「盗視者」ではなく「共感者」になります。子供、サラリーマン、ホームレス等々に向けられたファインダーは、いわば片想いの切なささえ帯びてきます。

そんな不思議な感覚を皆さんと分ちあいたいと考え、近日中に「合同フィールドワーク」を行いたいと思っています。まずはデジカメを持ってフラヌールする「フラヌールフォトプロジェクト」から参加者公募を行う予定です。
どうぞお気軽にご参加ください。よろしくお願いいたします!


・………………………

♦フラヌール調査抜粋メモ
                 作成:有吉達宏

【TAPE16 メモ】

<黄金町>  PM12:30〜 

0619     立ち話をしているおばあさん二人。左の人は日傘を差し杖をついている。
       話しながら無意識に足が動いている。左の人は白線の上に立ち杖で靴を触り感触を確かめて
       遊んでいるように思える。
       右の人が話をしながら手を仰ぎジェスチャーをつけると、左の人は杖をぎゅっと握り反応している。
       (会話という目的行動をしている中での無意識行動の現れ)

0702     路地裏の日陰で壁にもたれ涼んでいる男性二人。手前の人は寝転んで、奥の人は煙草を吸っている。
       奥の人が、右手で汗ばんでいるのかシャツの襟元を掴み風を通すように揺らす。
       その時左手のタバコを持つ手は火の危険性を知っているので空中に維持されている。
       火の危険性の認識は多分幼少の頃に築かれたことであり、半無意識行動であるが、目的行動に入る。
       過去と現在の記憶、時間のブリコラージュ現象にが起きている。
       撮影はされていないが寝ている時に起こす寝相、行動は無意識行動だろうかという疑問がわいた。
       夢を見ることは本能的な生存の為の目的行動であると思われ、夢の内容に反応しているのであれば
       それは意識行動であると言える。
       夢を見ることに、目的があることは幼い頃には認識していなかった。
       無価値と思えるものに価値を見いだす行為が行われた。
       無意識行動にも存在する以上理解され難くとも必要性があるものと考えられる。
       無意識行動(芸術)は必要性を認知され難くとも生存の為に必要である物だと考える方が妥当であると思える。
       (時空転移能力としてのフラヌールへの誘い、夢の在り方、無意識行動の重要性への考察)

1218     小学校の校庭で野球をしている小学校低学年の少年少女。
       教えている大人のトレーナーの人間よりも、子供達の方が非目的行動が多い。
       帽子を脱いで汗の状態を観察しているような少女。
       それを眺めるもう一人の少女が、手や足をフラフラさせている。
       やることが無い少年が手を後ろに組み、体を捻って遊んでいる。
       トレーナーが地面に足でサークルを描くと、子供はそれを目で追いつつ一回転をする。
       (非目的行動は子供に多い)

1420     信号待ちの原付に乗った男性。前方を覗き込みながら生存の為、危険を回避する為の注意を払っている。
       その男性のシャツを風が押し、シャツが胸に当たっている。きっと男性はそれに気がついていないが、
       皮膚はそれを感知しているはずであり心のどこかで気付いているはずだ。
       (感覚器官の存在、目的行動により見落とされる感覚の存在)

1537     バスの中の人々。女性が両手で指先を眺め何かしている。爪をいじっているのだろうか。
       (隙間時間に現れる非目的行動)


<黄金町・商店街>

1846     歩道をキョロキョロしながら歩く男性。
       目的無く目線を動かしている。
       典型的なウィンドウショッピングをしながら歩いているフラヌールだが
       歩く速度が速いので細部にまでは観察がいっていないだろうと思われる。
       しかし膨大な情報を自らに取り込みながら歩いていることは確かで、
       歩きながら陶酔しているようだ。
       (目的意識の割合の多いフラヌール、素晴らしい人間なのかもしれない)

1927     歩道を右手でビニール袋を揺らしつつ左手も揺らし、左手で鼻を触り、髪をかきあげつつ
       ウインドウショッピングもしてフラヌールでもある。
       (器用なフラヌール)

2428     歩道を非常にゆっくりと歩く女性。
       ホームレス特有の速度であるが、服がきれいなので
       異世界に生きている人間かもしれない。
       純度の高いフラヌール、陶酔者は帰って来れない、もしくは帰ってくるのに時間がかかる。
       純度の高いフラヌールは脱力している。
       当ても無く徘徊しているように見えるが、きっと街の日々の変化を敏感に感じ取っているのだろう。
       (純度の高いフラヌール、観察者としてのフラヌール)

2453     商店街で食事(汁物)を運びながら歩く女性二人と子供。
       一人の女性は両手で持ち、一人の女性は片手で食事を持ち、空いた左手が一見無意味と思われるポーズをしている。
       そのジェスチャーは何かを表現しているはずだ。
       (無意識に現れるジェスチャー、フラヌールしていることの証明)

2936     黄金町(シネマ ジャック&ベティー)
       本が並んでいる机を身を乗り出して眺めている女性。
       机の角に手を置き支えにしている。机はひんやりとした印象で、角に手を当てる感触も
       非日常的行動であり、楽しんでいるように思われる。
       (日常の中の無意識的行動)

4619     本屋の屋外陳列されたブースを行ったり来たりする男性。
       腰に手を当てながら、時々鼻を触ったりしている。
       腕を組むという動作は自制心のあらわれだろうか。
       陶酔によって自制心が解かれている様が確認できる。
       手を組んでいる時に、手の感触、もしくは空気の感触と臭い、周りの環境音を
       感じていてくれればと願う。
       (目的=自制の緩和、明滅)

5315     銀行の掲示を見ながら団扇を右手で扇ぎ、左手でお尻のポケットに手を突っ込んでいる男性。
       足がぎこちなく動いている。ポケットに手を突っ込んだ手を待たすぐ取り出し、歩き出す。
       (情報に心を奪われ、体への注意が散漫になっている状態。)

5549     ATMの順番待ちで外に立っている男性。
       手を腰に当て、体を捻らせて立っている。
       顔を斜めにして、周囲に目を配り、目線を下にやり順番が来て中に入っていく。
       (隙間時間に現れる観察、陶酔)


【TAPE17 メモ】

<黄金町・商店街>

0434     忘却の中にいるように街を歩いている男性。
       下を向いて歩き、そして上を向いて歩き、横を眺めて、歩き去っていく。
       (内的世界への埋没、同時に起こる外的刺激への反応、それも内的世界に
       取り込みつつ、また外的世界に刺激されるという入れ子の構造。)

0552     書店の屋外の棚の商品を手に取る男性。
       商品をクルクル回して眺め、それを置き立ち去ろうとするが、また足を止めて店内を眺め
       つつ、左手で顎を触っている。数秒後にそこを去る。
       (無意識の陶酔が覚醒していることで動きにつたなさ、矛盾が現れる、もしくは蘇る。
        そして無意識の陶酔が覚醒している=フラヌール。)
        

8月22日、午後12時頃から6時半頃までの調査より
Re[2]: フラヌール調査の一例、またはフィールドワークの断面について
【返信元】 Re: フラヌール調査の一例、またはフィールドワークの断面について
2009年08月25日 22:06
丁寧なお返事ありがとうございます。
その男性はきっと食事のことも忘れ本の内容に没入しておられるのですね。不条理と思われる行動をしている人は、もしかしたら、より大切にしなければいけないことに気付いている人なのかもなぁと思いました。

小説の一節とは恐れ多いお言葉で恐縮ですが、実際に小説家なども、フラヌールして街を歩きつつ観察していたのかなぁと思いました。そして街を歩く人々をみていると、皆が皆それぞれの物語を背負って歩いているのだなぁ…などとも思います。

そしてフラヌールしている人とはそんな街の中で、物語から自然に逸脱し、時間の連なりを忘れ、その場に陶酔している人であるように思えます。

その現象は物語からの逸脱でありつつ、全ての物語をつくっている源でもあるとも思います。そしてフィールドワークを通じて、そのようなフラヌール、無意識行動は全ての人に起きているものだということに確信を強めています。

chinatsu66さんのおっしゃるように、日常には様々なものが潜んでいて、見るだけ、触るだけで、『限りない』というとても単純なことに気付けるように思います。

合同フィールドワークに一人でも多くの方が参加してくれればいいなと思っています。
Re: フラヌール調査の一例、またはフィールドワークの断面について
【返信元】 フラヌール調査の一例、またはフィールドワークの断面について
2009年08月24日 14:13
無意識ながらも、メモの断面に書き綴られる一人一人が、
なぜか小説の一節にでてきそうな魅力を感じてしまいました。

以前、読んだ小説で、
話に夢中になり食べかけのパスタの皿の上に
タバコの灰をパルメザンチーズの様に落としている
一人の男性の描写があったのを思い出しました。

こんな風に、日常の隅々にはそれに目をむけるだけで
なぜかその光景を美しく感じる瞬間や、印象的な事物が
いくつもいくつもあるんだなぁと。

そんなこと考えてると、毎日をいい加減になんか生きてちゃダメだなぁ。
丁寧に生きていきたいものだと感じますね。

合同フィールドワーク、楽しみです!