ヨコハマ・フィールドワーク/都市のミームの「◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)」
「◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)」の書込一覧です。
◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
【閲覧数】5,267
2009年08月30日 20:38

ZAIM横浜(本館)Room401の壁面を用いて、アーカイブ型の展示をおこなっていくプロジェクトです。

この展示は随時トランスフォームし、増殖し、あるいは単純化するなど、最終形態の見えない「プロセスそのものの展示」となります。
このトピックは、その、膨張や収縮を繰り返す「試行=思考」過程のドキュメントです。

なお、この展示の最終形はヨコハマ国際映像祭メイン会場(新港ピア)で再現される予定です。




書き込み数は12件です。
[ 日付順 ] [ 投稿者順 ]
Re[7]: ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
【返信元】 Re[6]: ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
2009年10月23日 18:39
有吉さんへ

25日は13時の部に予約しています。

集合場所で待ってますので、宜しくお願いします。

中井
Re[6]: ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
【返信元】 Re[5]: ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
2009年10月23日 17:31
中井さんへ

本当に中井さんの勤勉ぶりには頭が上がらない思いです。

はい。
中井さんのおっしゃるように本来表現活動には失敗というものはないのだと思います。
しかし理解・既知の範疇を越えたものは評価できません。

前に学校の写真の先生が、その人が天才かどうかはわからないとおっしゃっていました。
評価される良い写真とは既知の評価基準に触れつつそれ以上のものを多く含むものなんじゃないかと思っています。

まったく現在の既知の領域を踏まない本当の意味で評価されるべき作品は多分知られていません。

中井さんが失敗だと思っている写真の中にはきっと中井さんの無意識的な部分が撮らせた何かが写っているのだと思います。
そう考えるとそこから学ぶのは本当に楽しいですよね。

人間の生物としての「未知」は誰もが含んでいるものだと思います。
不思議で楽しいです。


25日是非CDを受け取らせていただきたいです。
中井さんはいつの時間帯でご参加される予定ですか?


有吉
Re[5]: ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
【返信元】 Re[4]: ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
2009年10月23日 12:38
有吉さんへ

失敗写真を見直しました。定例会では、失敗写真の背景や子供
のフラヌール状態などに興味があるようでしたので、過去に街

の風景や何気なく撮った写真でボツにした写真を集めてみまし
た。編集していると、失敗写真ではないように見えてくるのが

不思議ですね。
25日は会場説明会ですが、来られるようでいたらデータ(C
D)を手渡ししますが・・・・・。

中井
Re[4]: ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
【返信元】 Re[3]: ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
2009年10月21日 07:42
 ZAIM401:Flaneur/Bricolageプロジェクト公開ワークショップに参加して下さった方々、本当にありがとうございました。

 進行の過程で生まれる意見交換やちょっとした小話に、人と人が関わり何かをつくることの喜びを再発見いたしました。交わされる発言の背景にはその人独自の経験が源となっていて、その経験とは生活の中でブリコラージュされたものであり、いつの間にかフラヌールしていて得た情報が介入しているものなのかもしれません。Flaneur/Bricolageプロジェクトが壁面を離れ、あの場の人々を含めた空間へと広がっているように思えました。

 もしかしたら壁プロジェクトでやっていることとは、生活の中で起こっている人と人とのコミュニケーションの再確認なのかもしれないなと思いました。
 
 都市というものもまた、個別の情報を持つ「人」の交流の場であると捉えるのなら、あの場の状態というのは都市空間の中のアジールでありつつ、都市そのものであるとも言い得るかもしれません。

 小話をしてしまう時の衝動というのは、どちらかというと非目的であり、単純な経験の共有への願望なのではないかと帰り道で思いました。

持参していただいた「失敗写真」は意図しないものであり、無意識的なものの現れであり、「未知」のものである可能性があります。皆で失敗写真を眺めながらいろいろと話しました。しかしそこには話せるものと話せないものが存在しているように思えました。昨日の時間内にはそれがどこに配置されるべきか判断することができませんでした。

この展示はこのまま新港ピアの『都市のミーム』のブースに移動されます。持参していただいた「失敗写真」がどう配置されるのか、期待してお待ち下さい。もしかしたらとんでもない変化を生む源となっているかもしれません。


【写真左】
大量になった素材を一度まとめ直そうと、相関図をつくってみました。6つグループをつくりました。『フラヌール』,『ブリコラージュ』,『子供(家族)』,『隙間の時間におきるフラヌール』,『無意識行動』,『見立て』,その他には『記憶』『時間性』『作品とモチーフの間の空間』等があります。動画から切り抜いてつくったフラヌール連続写真のもつ形態的特徴が、ただの木の棒に『見立て』を促し『時間制』を感じさせる効果を生んでいることがわかりました。木の枝を時間を表すものとして見た場合に経ち現れる『時間制』とは一体どのようなものなのでしょうか。この『見立て』はブリコラージュとも密接に関わっていると考えられ、入れ子構造のように循環する流れをつくっています。その循環の流れを見ているとその隙間現れるフラヌールもより深みを増すように感じられました。素材と素材の親密性について考えると、素材間の違いとは果たしてなんなのだろうかとも思えてきます。全ての素材が、濃度の差はありながらもどこかで繋がっているように思えます。

【写真中】
紙袋にまとめられた素材は、素材としての主張が薄れ物質的な重みとしての存在感を放ち出します。その重みが素材の内容を越えて何かを主張しているように思えてきます。

【写真右】素材が剥がされた壁面。もしかしたらこの壁面は素材で埋まっていたときは無意識領域として存在していたのかもしれません。そして素材がなくなり元の壁に戻ると、その無意識性はまた一つ奥にいってしまうのでしょうか。この壁には、素材を貼付けた跡と入れ子構造の蓋となる『個別性』が含まれているように思えます。壁の塗装の剥がれの模様が言葉少なに何かを伝えようとしているようにも思えてきます。

次回からは進行ピアでの更新になります。
映像祭中もイベントを各種考えています。

Flaneur/Bricolage プロジェクトも有意義なイベントを考います。映像祭に来られる方は、是非一度都市の未ミームのブースに足を運んでいただきたいです。


今後ともよろしくお願いいたします!


有吉
Re[3]: ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
【返信元】 Re[2]: ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
2009年10月16日 02:15
『ZAIM401:Flaneur/Bricolageプロジェクト公開ワークショップ開催!!』
日時:10/20(火) 18:00〜
場所:ZAIM横浜(本館)Room401


今回、10/20(火)の壁面更新に伴い、新たに参加者を募りワークショップを行います。
参加していただける方には壁面に追加する素材として「失敗写真」を持ってきていただきたいです。
「失敗写真」の中から抽出できるものについて一緒に考えましょう!

展示空間に持ってきていただいた写真が加わり、新たなダイナミズムを形成する瞬間に立ち会って下さい!
誰しもの意思が並列に存在するべきだと考えています。
あなたの意見が聞きたいです。



◎持ってきていただく「失敗写真」は一枚以上で、サイズは不問です。

(例)
・携帯電話フォト、デジカメ、フィルムカメラ等のストック画像から失敗写真と思われるものをプリントアウトして持ってきていただく。
・20日までに日常生活の中で何となく気になったものを撮影してもらいプリントアウトして持ってきていただく。


<当日の進行>
1、まったり談話(自己紹介など…)
2、これまでの経緯を記録写真のスライドで説明
3、現在の壁の状態の説明
4、壁の素材を全て外し、持参していただいた写真素材を含め床面に並べ皆で配置変換をしてみる。(この変化が新港ピアでの展示に反映されます)
5、まったり談話(今回の感想、今後の変化についての意見交換など…)

まったりしつつ…かつ内容の充実した時間を皆さんと過ごせたら嬉しいです。
よろしくお願いいたします!


※諸事情により、プログラムに若干の修正がありました。
ご迷惑おかけいたしました方には、深くお詫び申し上げます。

(変更箇所)壁への素材配置→地面に並べて配置を考える。

<連絡先>
有吉達宏
beatle-beeアットezweb.ne.jp
080-5514-6402

※お手数ですがアットを@に変えてご入力下さい。

(プロジェクトリーダーの松下港平が演劇の公演で多忙なので代理です)
Re[2]: ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
【返信元】 Re: ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
2009年10月12日 12:22
前回の10月10日の更新の続きです。

【写真左】これはフラヌールして撮影した写真から関連や思考の種となるものを探し、それがわかるよう二枚セットでプリントし、拾ってきた板材に貼付けたシリーズの一つです。上の写真はコンクリート片の割れた様子が気になって撮影し、下の写真はそれから半月程たった後に撮影しました。下の写真を撮影した時、直方体の木材を白く塗装した物体に、それ以上の何かを感じた気がしました。それにはその木材のある場所や当たっている光、木目の溝に付着した砂の様子等も関係しているのでしょうが、上の写真を見てから下の写真を見ると、両者の「白」「直方体」という共通点がリンクし、以前見た割れたコンクリートの残像が下の直方体を見る時に影響し付加的な印象を与えているのではないかと思いました。この現象は面白いです。ものに対して以前の記憶が類似性もしくは相反するものとして無意識的に連想され、そのものをその人にとってのスペシャルなものに変えてしまう。そのイメージの連なりというのはその人の歴史そのものであり、その変化は生きていく上での一つの喜びとなり得るものだと思います。しかし、それによってものをそのまま見るという状態からはどんどん離れていってしまうとも考えられます。経験の連なりによって変わっていくものの見方とそれを忘れてものをそのまま見る見方とのコントラストは喜びとなり得るものなのでしょうか。


【写真中】東北の山寺の老木の部分です。得体の知れないものの存在が入り込んでいるように感じます。それはそのものだけでなくその場所のもっている印象の影響もあるのでしょうが、この老木のもっている時間とともに膨れ上がった情報量は恐ろしく多量であり、認識の限界を越えた情報量を受容する時に「何かを感じる」という現象が起きるのではないかとも思わされます。画面の中央より少し下の部分に老木の複雑な表皮の隙間に差し込まれた一円玉が見えます。


【写真右】右側にある写真は、高架下につくられた建造物のドアです。このドアの向こうにある実際に存在する世界と、想像してしまう世界とがあると思います。ドアの向こうに想像してしまう世界とは、その人が無意識的に感じているものの寄せ集められたもので構築された世界なのかもしれません。ドアの形状や場所の印象によって、その世界の入口が変わり想像する様子も変わるのかもしれません。広大な無意識の世界を覗く為の定点的ポイントとしてドアというものは作用しているのかもしれません。そしてドアの向こうに実際に存在している空間もまた未知なのでしょう。

 左側にある二枚の写真は都市の建築物の窪みを描いた絵とある人物がそこに座った時に起こっているであろう変容の状態を描いたものです。都市の空間を与えられた用途以外に使用する時、使用者は無意識的に見立てを行い独自の空間把握をしていると考えられます。広大に広がった海を泳ぐ小魚を思い浮かべます。人と人との接触や相互理解というものは難しく、そしてそれはこの世界の持っている豊かさでもあるように思います。



Flaneur/Bricolage プロジェクトはこの先どうなっていくのでしょうか。先が見えないというのは不安の要素でもあり、希望でもあるように思います。


今後ともよろしくお願いいたします。



有吉
Re: ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
【返信元】 ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
2009年10月11日 01:32
壁を更新いたしました。先週は皆のおばあさんの法事が重なり(日程が合わず)更新できませんでした。そんなわけで今回は溜まった分を大量に追加いたしました。

【写真左】全体像です。全体の印象としては、パネル素材が増えたことで一見見やすくなったようにも思えるのですが、分岐点が増え特定要素の量が増えることで全体のまとまりをとるのが難しくなってきました。当たり前の事ですが素材が増える事によって場所が足りなくなってきました。これは人の思考領域の中で起こる現象とも似ているなと思いました。何かに対して注意を向けそこに集中して考えを膨らませているとその分野以外の領域に使える思考領域が狭くなります。思考の領域とこの壁の展示空間の違いとして気がついたことは、壁の素材は自然には消えないということです。思考領域の場合、意識に昇らない情報は自然と忘れられ、記憶の貯蔵庫にしまわれているのだと思います。今回、パネルの追加する為に以前から貼ってあった写真プリントを何枚か剥がしました。そしてそれを剥がす時にその写真の情報が頭から抜け落ちていたことに気付きました。剥がされた写真プリントは束ねられ保管されています。記憶にはすぐに思い出せるものと思い出すのに努力を必要とするものがあるらしいです。後者の方を指して意識外にあったもの=意識外領域にあったものであると言えると思います。これと無意識領域についてはまた違うのですが、意識領域の狭さを思い知らされました。単純に忘れっぽい性格であるという性質も影響しているのでしょう。また、いつの間にか窓と窓の間を使用領域と定めていたことも後から気付きました。次は窓の下の空間も使いたいです。

 配置としては、赤子を抱いた夫婦の拡大写真を下にずらし子供の目線の高さにしました。それに伴い他のものも移動させ、その写真のすぐ上にフラヌールの連続写真を貼りました。子供がはたしてフラヌールに興味を持つのかという疑問はありますが子供が見入ってくれている様子を想像すると面白いです。自分の思考の幅も広がる気がします。そのすぐ横にはただの木の棒が立てかけてあります。子供は何でも遊び道具に変容させる才能があります。きっとこの棒でも何かして遊ぶのでしょう。その横にはまた、ただ立てかけられただけの木製の写真パネルがあります。子供はこれを見て何を思うのでしょうか。そこには街で見かけたイスを撮影した写真が貼ってあります。僕はイスを見ると人はそこに人間の面影を見いだしてしまうような気がします。そしてすぐ右に何故か子供の動線を切断するように折れ曲がった鉄材を配置しました。これには前までの慣習の惰性と、幼児性の否認の感情、いたずら心、美意識、あとそれ以外の何かも関係しているのでしょう。フラヌール連続写真が子供目線のものと大人目線のものとに分かれました。この二つの時間軸は子供と成人の差異に留まらずに、何となく平衡宇宙やパラレルワールドの存在を感じてしまいます。人間の二面性についても考えてしまいます。配置変換に伴い、脳内の記憶の具現化をはかった造形物と石材の持つ方向性とその連続による地図の効果について考えた造形物とを繋げることを考えました。そして生まれたのは新たな造形としての面白さと、かたちとしての繋がりとそのものが個別に持っている内容の交流です。これはブリコラージュと言えると思います。新たに何かが誕生するというのはやはり面白いなと思いました。そしてこの壁の中で濃度や結び付きの異なるブリコラージュが何重にも重なって起きていることについても考えました。

【写真中】これは僕の実家にあったものです。この人形は以前は「有吉ろん」という名札のついた青い服を着ていました。それが古くなり破れたので母が新たに服をつくりました。その背後にあるバネルにこの人形を描いたものがあります。本で隠れていてよく見えませんがリンゴとタマネギの着彩デッサンをしている時に集中力が途切れて思いつきで描いたものです。髪の毛の橙が空中にふわ〜っと散布しているようで脳みそトロトロな感じが気持ちいいです。モチーフと作品の間の繋がり、媒体としての自分とモチーフに僕を含めた家族の愛情が加わっているという構造が面白いです。中央に見える絵はムンクの「病める子」という絵です。これを眺めながら力?をもらいアニメーションをつくったことがあります。その時に僕の糧となったものは、絵自体への感動と、画家との共感の感覚、それと何度も汚い手で触る事により増えていく汚れの表すその継続時間の蓄積の様子だと思います。汚れる程に複製画としての要素が薄れ、オリジナルの要素が増えてきているような気がします。左に置いてあるのは小学校の文集です。低学年の木版画の奔放さと高学年のものに見られる抑制の様子や、人格形成の初期段階の悲痛な叫びなど、考えられる要素が詰まっている気がします。これらのもの達はそれぞれ相互に強い関連性をもっているように思います。

【写真右】これはものに対する与えられた見方や価値を均等化させようと試みたものです。本当は小石の横に大粒のダイヤを並べたいのですが、それを阻止する意識構造の強さも感じました。雑多なものを並べているうちに様々な考えが浮かびました。人工物と自然物の関係性、複製品と創作物、個々の物質や全体がアフォードする情報、内と外、意識と無意識、見えるものと隠れているもの、隙間と覗き穴の違い、見立て、カムフラージュ、フェイク、転用、前後関係、時間性などあげようとすればきりがありません。右上に見えるDVDはもちろん散歩の後いつの間にかポケットに入っていたのを発見して貼付けたものですが、フラフラと古本屋を巡った少年時代のおぼろげな記憶がある気もいたします。性欲もまた偏りの生むものであると思います。既知の外=キチガイ=未知ということについても考えました。差別の意識とは嫉妬心の現れであるのかもしれません。個々人の意識とは、自分自身の立ち位置の正当化の為に動いているのでしょうか。そんなことを考えていると廃れた木材に安息を覚えたりするのですが、木材等の物質に意識が存在しないとも言い切れません。何となく、全てのものは興奮しているような気もします。

展示期間の終わりに近づきつつも定型化できる気がしません。どうなるかわかりませんが、また更新いたします。
今回触れられなかった変化についての記述も後ほどいたします。


今後ともよろしくお願いいたします。



有吉
Re: ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
【返信元】 ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
2009年09月29日 03:28
写真左:全体像。考察素材を新たに加え、散乱していた写真素材の量を減らしブロックにまとめ整理してみました。情報量としてはプラマイ0、少しプラス寄りという感じですが、全体としての主張が強くなってきたような気がします。中心に塊があり、その周辺に未開拓の部分が残されているといった印象です。この写真を撮ったあと木片が剥がれ落ちてしまったのですが、それにより壁に残ったガムテープのかたちを見て、僕とキュレーターの清水さんとで「あ、無意識の造形だね。面白いかたちだね。いいリズムだね。」としばらく眺めていました。


写真中:前回、前々回と注目を浴びた幼い子供を抱いた夫婦の写真を拡大してみました。子供というのは、ものを解釈するという思考回路がまだできていない段階であると考えられることから、未開拓の素材であり、全てのものをそのまま受容する段階にあると思います。経験、知識を重ねていくと、ものを経験と照らし合わせて見ていくという回路が生まれます。それは生きていく上で非常に大切な回路なのですが、何かを観察する際にはその回路が邪魔になり目を曇らせることあるかもしれません。
 あるものをどう見るかとはその人次第であり、その人の歩んできた歴史が如実に表れているのだと思います。そしてフラヌールとは見ることに集中し、その人の歴史、過去の時間を忘れている状態であると考えています。それは前後裁断が行われている状態と言えます。前後裁断という言葉は少し堅苦しいですが、それは例えば仕事に集中する為に私的な悩みを一旦忘れるようにするといった日常的な忘却行為、意識統制の少し進んだ状態なのだろうと思っています。フラヌールとはもしかしたら、本能的に自然と意識統制が成された結果として無意領域に踏み込んでいる状態と言えるのかもしれません。人間が動物に帰っている状態であるとも言えます。
 子供の初歩的な視覚能力によって記憶領域に取り込まれた膨大な情報は、初期はカオス的に散乱した状態であり、それが経験により形成される基準によってところどころで連なりやブロックが生まれていくのではないかと考えています。意識とは比較対象があって初めて機能するものなのかもしれません。そんなことを考えていると宇宙空間に惑星が形成される過程を思い浮かべます。無意識領域とは星の間の宇宙空間であるのかもしれません。しかし実際の宇宙とは違い、もしかしたら記憶領域の塊というのは圧縮され形成されるものなのかもしれません。または海水のように、豊富な微生物がうごめいている空間なのかもしれません。
 写真の子供の腕の皮膚はとてもやわらかく、薄いように見えます。それ故に最大限の感度をもっているのかもしれません。成長すると伴に皮膚は段々と硬度を増していきます。この状態は時間、経験を積むことによって生まれる情報の受容の裁断現象と関連があるのでしょうか。父親の腕は皮膚が強度を増し筋力もつき逞しくなっています。成長し子孫を残す為には情報裁断という精神の統制を保つ行為を行う必要があるのかもしれません。そして、その傍らでフラヌールというある意味での統制の解除も日常的に発生しています。そこには動物性を覆いきれない人間性が表れているのでしょうか。


写真右:上に見えるのはフラヌール調査の動画から切り取った連続写真です。コマ毎に見ているものが流れるように、区切られるように移り変っていくのがわかる気がします。そしてそれに連動するように無意識行動も起こっているように感じました。彼らの視界にすっと手鏡を差し出したとしたらどのような反応をするのでしょうか。しばらく静止して、自分の顔をまるで初めて見るもののように眺めている様子が思い浮かびます。薄い木の板の形状が船のようにも見えてきます。フラヌールのゆっくりとした歩行からは、穏やかな波の揺らめきを連想します。
 その下にあるのは木片に釘を打ち石を乗せ植物を絡ませたものです。脳内の記憶空間を具現化したらとはもしかしたらこのような感じなのではないかなと思ってつくりました。石や植物は拾ってきたものです。記憶の状態としてはポンと頭に入ってきた初期の状態でしょうか。ここから思考を練り何かを導きだす為には木片を捻り植物は四方に根を伸ばす必要があるのかもしれません。木片を脳だと思ってネジを手でネジネジやっていると、なんだか自分の脳のそこにあたる部分が刺激されるような気がしました。石に交じってボンドのキャップも乗せました。捨てられることによって人工物は自然物に近くなるように思います。
 その下に見えるのは木片に葉っぱを連続させて並べ、そこに飲み捨てられた空き缶を並列させたものです。葉っぱのだんだんと枯れていき、薄くなり変形していく様からは無意識行動や老人の猫背を思い起こします。積年変化とはもしかしたら蓄積された無意識行動の表れなのかもしれないと思いました。空き缶もまた道の片隅に落ちていたのを拾ってきたものです。缶の口にココアの飲み残しが付着しています。都市の中での無意識の表出は、汚れ、外れたものと認識されることが多いように思います。確かに缶の口は手を切りそうで危ないし、飲み残しは汚く思えます。



今回の新素材はこんな感じです。写真からの考察とものが主張する情報とが交じり、少しづつ肉体性が表れてきたように思います。Flaneur/Bricolage プロジェクトも週に一回のペースで更新してきましたが早いものでもうすぐ終わりです。でも展示としては終わっても、自然と続けていってしまうものなのだろうなと思っています。


また来週も更新いたします。
今後ともよろしくお願いします。


フラヌール調査担当:有吉達宏
Re: ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
【返信元】 ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
2009年09月21日 00:59
9月19日 Flaneur/Bricolage プロジェクトを更新。

有吉氏が捉えたフラヌール写真に
サポートクルーがコメントを記載したピクチャアが
多く壁に貼り巡らされた。

壁はより一層の厚みを帯びる。
横から見た壁は地震を孕んだ地殻のようですらある。

さらに有吉氏による連作鉛筆画が壁を飾った。
フラヌール状態への手先からのアプローチが宿る。

本日改めて目を引いた、子供を抱いた夫婦の写真。
子供は常に人間という規範から外れてきた。
ではカオスに生きるフラヌールの達人、子供は何者なのか。
明らかに中身は人間とは異なるが人間の形はしている。

彼らが育つように、
この壁もまたカオスと共に育つことを切望する。
Re: ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
【返信元】 ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
2009年09月16日 14:34
9月13日 Flaneur/Bricolage プロジェクトを更新。

壁からの侵食が著しい一日となった。

貼り付けた写真は撓んで手前に這い出し、
有吉氏によるブロックが新たな線分を生んだ。

黄色いパネルからの線分は今後とも伸びていくだろう。

写真たちは位置をやや中央に収束させつつ、
右舷に根強く残る2枚。

黒い金属製の針金はついに壁面からの逸脱を成功させた。

今後収束と拡張との2元を繰り返すのか、
新たなz軸が発生した今、未だ終点は見えない。
Re[2]: ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
【返信元】 Re: ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
2009年09月06日 02:41
Flaneur/Bricolage プロジェクトの更新をいたしました!

新宿その他にてフラヌールを探し撮影したものをプリントアウトして鉛筆で感じたことを書き添えました。
衝動的に、感覚的に思った事を書くというのは難しいなと思いました。次は言葉を使わない考察を行ってみます!



写真左:全体図。画面に写っているのはフラヌーラー中丸友里恵さんです!フラヌールフォトプロジェクトを担当しています。(現在、一緒にフラヌールして写真撮影を楽しんでいただける方を募集しています。トピックの「フラヌールフォトプロジェクト」に詳細が載っていますので、ぜひ覗いてみてください!)

写真中:赤子を抱いた男性。子供を抱いている事を半分忘れているように思える。その時男性にとって子供は胸に感じる重み、温もりとしてあるのではいだろうか。子供をもつということについての本質はそのようなものなのではないかと思った。

写真右:赤子とはもしかしたら常に陶酔を伴った観察を行っているのではないか。世界に初めて触れるのだから当然のような気もする。
Re: ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
【返信元】 ◆ ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクト (担当:松下港平)
2009年09月05日 10:25
ZAIM401:Flaneur/Bricolage プロジェクトが始動いたしました!

これから続々と増殖していきますので楽しみにしていてくださいね!
現時点ではパネルを作成し、配置を組み替えながら増殖させていくという計画で進めていこうと思っています。

まずとっかかりとして始めましたのが、日々の生活のうちに周囲の環境を記号化してみてしまうという状況とフラヌールはその状況を脱しているのではないかという解釈を元に、フラヌールしている人々の写真とCGの背景に彼らを配置してみた画像を並列して見比べられるようにしました。

それと日常の中で「今自分はフラヌールしている!」という感覚を得たモチーフをコラージュし、壁に立てかけてみました。陶酔を覚えるモチーフというのは、無意識的な深い記憶に関係しているものなのかもしれません。

この状態から生まれるアイディアを元にしてまたどんどんと増殖させていきます。既にアイディアが沸々と…。

変化があり次第、その都度ウェブ上で更新をしていきますのでお楽しみいただけると嬉しいです。


写真左:全体像(既に増殖のための素材が下に控えています!)
写真中:フラヌールをCG背景に配したもの
写真右:自分がフラヌールしていると感じられたモチーフのコラージュ