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安政6年(1859年)に開港場となって以来、横浜は西洋文化の玄関口となりました。馬車道を起点にして全国に拡がったものも数多くあります。 ガス灯は、明治5年(1872年)に、高島嘉右衛門の「日本ガス社中」により、馬車道・本町通り等に設置、点灯され、これが日本における最初のガス灯となりました。柱部は英国グラスゴー市から輸入し、灯具は日本人職人により製造されたと言われます。 このたび、横浜市市民文化会館〔関内ホール〕新築完成を祝って、当時の型をモデルとしたガス灯を復元設置しました。 壁面レリーフは、横浜開港資料館所 … [続きを読む] |
5月29日は横浜大空襲のあった日。明日で65周年を迎える。 1941年12月8日 日本軍の米国真珠湾軍港に対する奇襲攻撃により 大日本帝国は 連合国軍との間に戦端を開くに至った その後1945年8月15日に至り わが民族の滅亡を憂うご聖断により漸く敗戦の日を迎えた その間 三年九ヶ月余 政・軍・官の情報統制の下 一般庶民は戦争の実相を知らされることなく ひたすら盲従を強いられた日々であった 戦線が次第に日本本土に近づくにつれ 米軍機による空爆は熾烈を極め 国内百数十の都市が軍事施設・民間施設の別なく攻撃を受け … [続きを読む] |
北歐の 船腹垂るる 冬鴎 秋元不死男 秋元不死男について→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%85%83%E4%…B%E7%94%B7 posted by メタ坊 |
桜木町駅の横にあった「東横浜駅」。 同駅は1915年(大正4年)、横浜駅(後の桜木町駅)の高架化工事着工のため、貨物取扱業務を分離する形で開業した貨物専用駅でした。 1979年(昭和54年)、時代の流れにより貨物取扱を廃止し、東横浜信号場となとなりましたが、1981年(昭和56年)それも廃止。 その後、みなとみらい21地区開発のためすべてが撤去され、しばらくの間は空き地になっていました。 1986年(昭和61年)の中区民まつり「ハローよこはま」は、この駅裏空き地で開催しています。 かつて、桜木町駅構内の柱に、こんな詩が掲げ … [続きを読む] |
1986年の中区民まつり「ハローよこはま」は、桜木町駅裏で開催されました。 これが当時の写真。 参加者の後ろに見えているのが桜木町駅ホームと横浜市健康福祉総合センター。 本牧本郷町に伝わる本郷囃子の方々。 町内会の資料には、このようなことが書かれています。 いつの頃から「お囃子」があったのかは明確ではありませんが、私達が伝え聴いているところでは、明治時代初期からとのことです。戦後、本郷囃子が長老により復活されましたが、一時途切れてしまったものを、昭和31年に地元の若者が集り、再復活させ今日 … [続きを読む] |
2010年3月19日(金)、横浜・JR桜木町駅前に19階建の複合商業施設「TOCみなとみらい」がオープンしました。中にはショッピングタウン「コレットマーレ」や大型シネコン「横浜ブルク13」、ホテル「ニューオータニイン横浜」、フィットネスクラブ「Begin」などが入っています。 住所:横浜市中区桜木町1-1-7 (みなとみらい21地区28街区) 6階、8階には大型シネコン「横浜ブルク13」。13スクリーン、約2600席の神奈川県最大級のシネコンだとか。 http://burg13.com/index.html 6階、7階はレストラン街。6階は専門店が並ぶフロア。串焼き、スイーツ、韓国料理、 … [続きを読む] |
「TOCみなとみらい」には便利な駐輪場が設置されています。それが、これです。 場所は建物のちょうど裏側。みなとみらい21クリーンセンターと向かい合った場所です。 朝7時から夜11時までの営業。自転車は1時間100円、自動二輪・原付は1時間200円ですが、どちらも3時間までは無料という嬉しいサービス。 自転車は専用の溝を通過させないと自転車であることを認識してくれません。 ゆっくり通しましょうね。 チャリで「TOC」まで出かけて、レストラン街でランチをするのも、この駐輪場があるので安心です。 ( … [続きを読む] |
隴西の李徴は博學才穎天宝の末年若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介自ら恃むところ頗る厚く、賎吏に甘んずるを潔しとしなかった。 山月記より 昭和五十年十二月四日 中島敦文学碑を建てる会建之 中島敦について 中島敦は明治四十二(一九〇九)年東京市四谷区箪笥町に父田人、母千代の長男として生れたが、故あって幼時は埼玉県久喜に漢学塾をいとなむ祖父中島撫山夫妻に育てられた。 敦は漢文の教師であった父の転任に伴い各地を転々とし大正十五(一九二六)年京城中学四年終了にて第一高等学 … [続きを読む] |
長谷川伸の碑(右側の高札風の碑) 新コは明治一七年、この土地、日の出町の大岡川にかかる黄金橋のたもとで生まれた。生家『駿河屋』はヨコハマ市街地建設のため野州から移住してきた請負業である。 新コはこの地で関八州の渡り職人衆から渡世の礼儀を学び、また神奈川県自由民権運動の魁、相州真土村騒動の指導者たちから、民衆の側に立って闘う男の姿を学んだ。 三歳時に母と生別し、面影を慕って、のち『瞼の母』を生んだ。『駿河屋』の没落によって小学校低学生で学業をあきらめ、三菱ドック(現みなとみらい21)に波止場小僧 … [続きを読む] |
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