私は犬が苦手です。いきなりのカミングアウトで恐縮ですがかなり苦手です。
時を遡ること数十年、当時配送のバイトをしていた私は、醤油の詰め合わせのお中元を肩に担いで止めた車から配送先のお宅までの数十メートルを歩いておりました。
その時、すれ違う少年と、少年が連れている白い犬が通り過ぎていきました。
そして2.3歩。
私の右太ももの裏に激痛が走ったわけです。
ありゃりゃ、思いっきり先ほどの白い犬の大口が私のももをがっぷりしているではありませんか。
なすすべもなく見守る少年の目の前でその後白昼夢が繰り広げられたわけです。
それ以来私は犬が苦手です。犬が好きな方、好きでも嫌いでもない方には信じてもらえないでしょうが、どんな犬でも後ろから襲いかかる可能性があると思っている私にはどんな犬でもやはり怖いのです。
狭い道で散歩中の犬とすれ違うときは必ず迂回しますし、逃げ場がない場合止まってしまいます。そんなときの私の顔は、飼い主からすれば理解不能な顔をしているのだと思います。どんな犬にも恨みはないものの駄目な物は駄目なのです。私から攻撃をする気は全くないのですがそういう人間も確実にいるのだと言うことを平然と無視する方に会うと心底むなしくなるわけです。冬に洋服を着せようと抱いて店に入ろうとまぁそういうひともいるかと思えるのですが「自分の普通」を疑問無く押しつけてこられるとさすがにびっくりしてしまうわけです。
私は芸術家なので想像力は人間の資産ですらあると思っています。
想像力が社会の資産だという認識があればもっとほっとする社会になるとすら思っています。
さて、煙草の話題
先日関内を歩いていると、信号待ちをしている男性が煙草を吸っていました。後ろから見ているとその男性の横に、30代後半とおぼしき女性がその煙を手ではたいているのです。こっちに来るなと言わんばかり男性を睨みながら手をはたいているのです。
私は喫煙家ですし、煙草にはかなりゆるい考え方を持っていますので歩行喫煙禁止エリアで歩行喫煙をしている方を見ても何とも思いません。勿論それは私が喫煙家だからということもあるとは思いますが、「目線」の問題でもあると思います。
前述から引っ張ってくると手をはたいた女性にエールを送りたくなる構成ですが・・逆です。
彼女は確実に煙草を吸っていません。吸ったこともないのではないかと思います(わかりませんがね)私の勝手な想像で申し訳ありませんが(暴言勘弁です)彼女がはたいたのは「煙草の煙」ではなく「副流煙」です。
「副流煙」とは喫煙者の言葉ではなく、煙草を吸わない方の言葉です。喫煙者には「副流煙」とは新しく生まれた概念で煙草を吸う行為には含まれない言葉です。結果責任に属する言葉ですね。
1ユーザーも結果責任を負うべき、というのが世の中の大きな流れです。「節度ある市民」というわけです。
しかしこの考え方にはどこか無理があるように感じています。
1ユーザーも公的責任はある、というのは正しいです。でもそれだけを取り上げて論じると何もかみ合わないのだと思います。公的責任は行政にも企業にも流れをリードするマスコミにもあってそれが相まみえてこそ1ユーザーの公的責任になると思うのです。
言い方を変えると1ユーザーの公的責任のみで論じると誰も煙草を吸わない社会が素晴らしいというとんでもない愚行にすり替えられるんじゃないかとすら思っています。
煙草を吸う人もいる、吸わない人もいる。そこに「攻撃」が起こらないという状態を作るのが創造や発明だと思うんです。「副流煙攻撃キャンペーン」の急先鋒になるより煙草会社に喫煙者への効用を変えずに「発ガン性物質なしの無臭煙煙草」を開発してもらうなり、その開発に税金を投下した方がよっぽど良いんではないんでしょうかねぇ
現実は世の中見回すと歩行喫煙は圧倒的に少なくなりました。JRの駅でも端っこに追いやられていた灰皿すらなくなります。
危ない香りがしてきました~
禁煙に大きく傾いている世の中の「雰囲気」が「副流煙」をはたかしているというのは穿った見方でしょうか。禁煙と嫌煙は違うわけで得てして想像力がないと「嫌煙」を自分の意志と勘違いするのでしょうね。
その「副流煙」をはたいていた女性と喫煙男性が待っている交差点に切れ目なく車が行き交っていました。当たり前ですがどの車も排ガスをまき散らしているわけです。「副流煙」と「排ガス」を横並びにするのは気が引けますがはたくなら二つともはたけば良いのに、と思わずにはいられません。
もし誰も煙草を吸わなくなったとしても健康被害は煙草以上に排ガスにもあるはずです。
思い出すと02年に知り合いのプロデューサーから聞いたのですが、新潟にある大型石油コンビナートを買い取ってさる燃料会社がガソリンに変わるエコ燃料の大量生産を始めようとしたところ政府から許可が下りず根回しも頓挫し暗礁に乗り上げたという話がありました。
当時の自動車業界からすれば社会目的の第一義を「環境」に置き換える前の話なので代替燃料が実用化されてしまえばパラダイム変換が起こってしまうわけですね。石油業界、自動車業界、輸送業界総出で潰されたのだと思います。
世の中は既得権益の争奪戦な訳ですから取った側から見ればパラダイム変換は起きない方が良いのでしょう。なぜなら企業は企業が考えた「ニーズ」を「常識」にしたから既得権益を奪取できたのですから。
「常識」とは相対的な物です。今の常識も10年後にはかなり変わっているはずです。しかし企業為政者にとって大切なのは今「常識」だと思わせることです。その「常識」をキープしつつ「マイナーチェンジ」をしながら「飽き」を迂回するのが商売ですから。
ですので公的責任を企業に求めるの筋違いです。企業は後追いで公的責任を果たせばよいのではないでしょうか。やはり本来真っ先に公的責任を果たすことをしなければならないのは「行政」なのでしょうね。来年から「エコ燃料以外この国では使えません」ということが出来るのは「行政」しかないのですから。
しかし「行政」も万能ではありません。結局人がやっているのですから当たり前といえば当たり前ですね。「税の不均衡」を感じて財力のある企業や個人はとっくに海外に本拠地を移転しています。イギリスのミュージシャンの本拠地がイギリスにないのは有名な話です。
今回のリーマン=サブプライムで図らずもはっきりしてしまったのは「アメリカの時代の終わり」、「グローバリズムの欠陥」でした。世界は数百年続いた「帝国主義覇権」の軛から逃れたわけです。同時に武器無き覇権争いが始まったと見るべきか、「グローカリズム」が始まったと見るべきか、なんだか面白いことになってきました。
余談ですが東京23区でも区行政はかなりの差が出ています。児童手当も相当な差になってきました。「子供を育てる為に住む区を選ぶ」、行政サービスの結果は自ずと住民税収に跳ね返っていると思います。それが遅々としていても臨界点になれば表に噴き出す物です。しかしドラスティックに変わらないのは一極集中のなせる技です。400年続いた首都東京をおいそれとは動かせないのでしょうがこれも臨界点待ちですね。
時代は確実に「集中」から「分散」に変換しつつあります。後は「行政」の早さと勇気なのですがね。
その「行政」の遅さにうんざりすればするほど「プロ市民」が増えるというのはその通りだと思います。
その「プロ市民」台頭の元、年末年始かまびすしかったのは「年越し派遣村」。そして時を同じく「派遣村たたき」がネットでは大流行です。
「行政」が作るシステムとは結局「ざる」が現実です。現実とは所詮「ざる」ですからそれは致し方ないでしょう。そのざるから抜け落ちていってしまうのは、「お年寄り」だったり「病人」だったり「身体障害者」だったり「部落民」だったり「外国人」な訳です。だからそこにパッチを当てるわけです。
しかし今回は今までざるにしがみついて落ちなかった人がどすんと落ちたわけです。それを「病人」のように同じ原因としての一つの言葉に置き換えられないわけです。それをどういう基準でパッチをはめるべきか右往左往して落としどころを模索しているのが現状です。
ここに欠如しているのは「想像力」。溢れかえっているのは「無知」。まるで自分の意志のごとく人の人生をたたけてしまう「幼さ」。
政治とは単に「税の再配分」という言葉を聞いたことがあります。確かにそれは真理ですね。「定額給付金」の2兆円をこういう使い道があります、というロジックを良く聞きます。「税の再配分」というのは回収する必要のない資本投下です。
「融資」「投資」は回収が義務です。さらに目的も求められます。「何のために」「何を」「どうやると」「誰が」「どう儲かる」というロジックと実現性です。しかし「税の再配分」は最後の「どう儲かる」が「どうなる」に置き換わるわけです。
そして「何のために」と「誰が」「どうなる」は初めから決まっています。
「エンドユーザーのために」「何を」「どうやると」「エンドユーザーが」「幸せになる」
これが「税の再配分」の絶対条件だと思いますが、現実はどうなんでしょうね。
多極化・多様化を構成するのはやっぱり創造と発明と思いけり
ガザで空爆が続く同じ正月。創造と発明の足りなさと大切さを改めて痛感する日々です。
今までの日本で必要な能力とは「他者との違いを無くし、同じ目的で、生産力を高める力」でした。
これからの日本で必要な能力とは「他者との違いを理解し、違うまま、同じ目的で、創造・発明する力」だと思います。
よく考えると「演劇」を為し得る力、そのものなんですね~~