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2009年02月06日(金) 

きょうは暴論をあえて。たまにはいいかな。


気分を害する人もいるときっとおもうのだけれど、
乱暴にいうと
わたしは
ヒーラーだとか
スピリチュアルとか
というのが苦手だ。


サンマーク出版が苦手で、
「水はなんでも知っている」が苦手で、
神との対話とか
ヒーリングとかが苦手だ。

精神を扱う話が、いつのまにかサービスやグッズの単なる消費行為を扱う話になっていることに気づかずにいる鈍い人たちが苦手だ。

ヒーラーってなんだ。。
「自称・エッセイスト」に通じる、よくわからなさと困った感とある種の自己完結感を感じるのは私だけか?


そして、さまざまな癒し手の乱造は、それらを認定する団体の何の根拠もない「資格ビジネス」の一環ではないのか?
認定団体=胴元。
そして癒しはそもそも「買ったり売ったり」できるのか?


また、ヒーラーなるひとの生活のあり方を丸ごと知らない中で、そのヒーラーなるひとをどうやって信じろというのか?
断食や修験道の修行を潜り抜けてきたひとたちなのか?
自然の荘厳さを肉体に刻んだことがあるひとたちなのかどうか、わからないのに、信ずることができない。


聖なる世界と俗なる世界のつなぎ手=ブリッジとして、暮らしと人々のつながりのなかに、かつて存在したであろう癒し手。
それは沖縄のユタであったり、スリランカの悪魔祓いであったり、さまざまな宗教の担い手であったのだろう。
共同体のなかで異端であるがゆえに聖なる存在であった人たち。
いまヒーラーと称するひとたちが、人々の暮らしのつながりのなかに、位置しているとは思えない。
いま、自称・ヒーラーのひとたちは、お金がないひとは癒さないのだろうか。
ただでも手当てするのですか?

どうなのだろう。
コトブキに行って、お金のないおじいさんに手当てしてあげたりするのだろうか?
みずからは貧しくても。
みずからドヤに住んでも。

共同体の中のつながりが切れた部分に、病という現象がうまれるとしたら、スピリチュアルやヒーリングをいまビジネスにしているひとたちは「この世の中」のつながりを断ち切る仕組みに対して、どのように向き合っていくのだろうか?


22年ほど前、真木悠介さんが主宰したワークショップで、整体協会の活元運動を経験した。
深い経験までは十分にできなかったけれども、真木さんから野口晴哉さんが愉気を始められたころ「手当てを宗教にも金儲けの手段にもしたがらなかった」という話を聞いた。
「教祖」になろうと思えばなれたのに、宗教法人は作らなかった
なぜなら「本来、その人に備わっている力を引き出すだけだから、これは不思議でもなんでもない。お金はとれない」と。
その言葉には深く共感した。
つまり、「合理的」=理に適っていることだからお金は取れない、ということ。


そのころオウム真理教や真光やさまざまな「合理的な西洋の価値観の行き詰まり」を説く新宗教に同世代の人たちが傾斜するのを感じていた。
有隣堂ルミネ横浜店にもオウムの機関誌が置いてあった時代である。
わたしも「合理的な西洋の価値観の行き詰まり」という見立てには、非常に魅力を感じていた人間であったが、真木さんから聞いた野口さんの言葉が残っていたので、踏みとどまれたのだと思う。

でも、「合理的」って悪いことばぢゃないはず。
理に適っているということなんだから。
非西洋的=非合理的なこと=スピリチュアル=深遠、というのはあまりに浅薄な見立てだと気づくに至った。


野口さんは「癒し」でなく「体育」を説いている。
「人間の持っている力に気付いて、その可能性を拡げる気構えで行動することが体育の中心であらねばなりません」
活元運動は、仲間のサポートを受けることもあるけれど、基本はひとりでもできる。
施術というサービスを買わなくても。


エステの延長的に、楽しい消費行為としてヒーリングとかスピリチュアルとかをビジネスとして展開していることに自覚的ならいいと思う、まだ。

誰が儲かっているのか?
その利益は誰の何に使われているのか?
そこはちゃんとクールに見つめていたい。

 

追記)

 お金を払って、自分自身のことを話せる相手を見つけなければならないほど、日常のつながりが希薄で、孤独に陥っている人が多い社会だから、成り立つ「ビジネス」なのかもしれない。

不思議なのは、マルチネットワークビジネスとの親和性も高そうだという点。


先輩が二人ほど、スピリチュアルな場所を求める旅に出て、帰ってきたらネットワークビジネスにはまっていた。

水系、環境系、サプリメント系・・・。「自己啓発」というキーワードをはさんで、つながっているように、わたくしには見えます。


閲覧数7,519 カテゴリNote コメント11 投稿日時2009/02/06 21:18
公開範囲外部公開
コメント(11)
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これより以前のコメントを見る
  • 2009/02/07 10:14
    晶子さん
    私がチャネリングにはまった会社は「ビジネス」といいきっていたので、怪しく思えなかったのかもしれませんね。コンサートを行うと同じような経費でやっていたから。

    この話は深いからこんな狭い場所でコメントはできないのですが、「音楽」という音のウエイブを「売る」職業人として、生きていくためにボランティア的に仕事をすることはできないです。そういう分野だけが特別ではないですよ。

    すべてがブツブツ交換だったら、よかったのに、お金という単なる「紙」に価値を持たせた瞬間にいろんなことが変わっていくんでしょう。

    もしも音楽を楽しんでくれて、キャベツ1個おいていってくれても、私はそれでもいいんだと思う。でも現在、音楽の世界も、複雑に組織立っていて、どうにもならない構造の中、アーテイストというある意味教祖的なカリスマを表に出すために、どれほど多くの人がかかわり、お金が動いているか。それを考えただけで、純粋に音楽できない気持ちになった若い頃もありました(笑)

    でもそれがすべてわかっていても、私は音楽という仕事を楽しんで行い、多くの人の心を癒せるものを生み出していきたいです。話がそれてごめん。
    次項有
  • 2009/02/07 11:35
    古典落語のネタだったのか、
    へなちょこマーケッターの殺し文句だったのか、
    フランチャイズチェーンの様な集金システムを持つ
    怪しげな宗教団体のご託宣だったのかは、
    忘れちゃったんですけどね、

    『 信じる者を増やすと儲かる!! 』
    『 “信”って文字に“者”を足すと“儲”かるになる!!』

    ・・ってのがあります。
    ・・もちろんそれは事実なんだろうけど、

    信じさせるために、ひとの心を操って、
    天国や地獄や神や仏をでっち上げて、
    “信じる者は救われるけど信じないヤツは救わない”
    な~~んて胡散臭~~い連中の“すぴりちゅある産業”が
    流行るのは、

    お金で手に入らないモノはないとまでは言わないけど、
    お金で手に入るモノの範囲が
    どんどんどんどん無制限に拡がって行く社会の中で育った
    モノや社会システムのインフラが整備された中で
    育ったことの代償みたいな側面が
    あるのかも知れないなあって思っています。

    ストレス耐性未発達なまま、
    ネガティブなことにちゃんと向き合えないまま、
    「ポジティブでいなきゃ」の強迫観念に急き立てられて、
    信じるってことは、
    それが真実かどうかは疑わないってことに気付かないまま、

    手軽に便利に電子レンジでチンするみたいに、
    “コンビニエンスに癒されたい症候群”の人達を集めて、
    ビジネスにするってのは、

    そりゃまあ、
    モノは言いよう気は持ちようで、
    不条理の中で生きる人間にゃ、
    時には現実逃避も必要だってことも含めて、
    残念ながら、
    なかなかたいへん良くできたソリューションビジネスだとは
    思っています。   ̄〇| ̄|_ トホホ。

    次項有
  • 2009/02/08 03:07
    スーさん
    「暴論」というより、現実ですね。
    お金が絡むから、外から見ると変な世界。

    でも、みんなすごく関心があるようで。
    疑問はたくさんある。

    考え方は別にして、この流れ、ぜひウオッチングしておく必要あり。
    ちょうど私は14日午前、1時間で会費1万円のセミナーに参加の予定。この「値段」、高いのか、安いのか。
    呼びかけ文は「2009年、九紫火星、己丑の年 あなたはどのようなご活躍の年になられるでしょうか? 更なる運気アップと幸せのプロデュース、そして2009年の自然界の現象と行方を ぜひ聞きにお出かけ下さいませ」とあります。

    2時間程度のこの集まりに、いかほどの価値があるのかは分かりませんが、みんな満足して帰っていきますね。逆に言うと、そういう人しか来ないわけですが、さて、その現象をどう見るのかですね。
    次項有
  • 2009/02/08 14:25
    ハタさん
     『論座』最終号で政治学者の川出良枝さんが「砂のように孤立化していく個人をどう救うか-デモクラシーと集団を考える」という論考を書かれていましたが、hopeさんのエッセーを読み、それを思い出しました。
     合理的みてに「?」なものを信じる人が不幸なのか幸せなのかは分かりませんが、そういう人が増加している社会はとても脆弱だと思います。
    次項有
  • 2009/06/22 16:19
    ひろみさん
    苦手苦手と言ってないで、一度出会ってみたらどうだ。経験しなくてはわからない。頭で考えても理解できない事が山ほどあるのに。
    何故スピリチュアルが消費になる事に反発を覚えるのか?お金はとてもスピリチュアルなものだとは思わないのか?まがい物か本物かそれも経験しないと見抜けない。letsTRYだ!
    次項有
  • 2009/06/22 18:27
    鉛筆hopeさん
    > ひろみさん
    コメントありがとうございます。

    わたくしは、お金なしでも不可思議なことや奇跡があると信じているし、出会ってるので、上記のようなことを書いたのです。

    宗教や死についてもささやかながらも、ずっと考えたり、読んだりしてきたつもりです。

    まったく考えたことも、体験したこともなくて、言ってるわけではないですよ。むしろ本当に存在を信じているから、それを「商品化する」ことに違和感を感じるだけです。

    お金がスピリチュアル、というときのスピリチュアルの意味がわたしにはいまひとつ、わかりません。

    ムハマド・ユヌスさんが展開されてきた「グラミン銀行」のようなマイクロクレジット、あるいは哲学者の内山節さんが書くところの「温かいお金」という感覚なら理解できますが。
    次項有
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