きょうは暴論をあえて。たまにはいいかな。
気分を害する人もいるときっとおもうのだけれど、
乱暴にいうと
わたしは
ヒーラーだとか
スピリチュアルとか
というのが苦手だ。
サンマーク出版が苦手で、
「水はなんでも知っている」が苦手で、
神との対話とか
ヒーリングとかが苦手だ。
精神を扱う話が、いつのまにかサービスやグッズの単なる消費行為を扱う話になっていることに気づかずにいる鈍い人たちが苦手だ。
ヒーラーってなんだ。。
「自称・エッセイスト」に通じる、よくわからなさと困った感とある種の自己完結感を感じるのは私だけか?
そして、さまざまな癒し手の乱造は、それらを認定する団体の何の根拠もない「資格ビジネス」の一環ではないのか?
認定団体=胴元。
そして癒しはそもそも「買ったり売ったり」できるのか?
また、ヒーラーなるひとの生活のあり方を丸ごと知らない中で、そのヒーラーなるひとをどうやって信じろというのか?
断食や修験道の修行を潜り抜けてきたひとたちなのか?
自然の荘厳さを肉体に刻んだことがあるひとたちなのかどうか、わからないのに、信ずることができない。
聖なる世界と俗なる世界のつなぎ手=ブリッジとして、暮らしと人々のつながりのなかに、かつて存在したであろう癒し手。
それは沖縄のユタであったり、スリランカの悪魔祓いであったり、さまざまな宗教の担い手であったのだろう。
共同体のなかで異端であるがゆえに聖なる存在であった人たち。
いまヒーラーと称するひとたちが、人々の暮らしのつながりのなかに、位置しているとは思えない。
いま、自称・ヒーラーのひとたちは、お金がないひとは癒さないのだろうか。
ただでも手当てするのですか?
どうなのだろう。
コトブキに行って、お金のないおじいさんに手当てしてあげたりするのだろうか?
みずからは貧しくても。
みずからドヤに住んでも。
共同体の中のつながりが切れた部分に、病という現象がうまれるとしたら、スピリチュアルやヒーリングをいまビジネスにしているひとたちは「この世の中」のつながりを断ち切る仕組みに対して、どのように向き合っていくのだろうか?
22年ほど前、真木悠介さんが主宰したワークショップで、整体協会の活元運動を経験した。
深い経験までは十分にできなかったけれども、真木さんから野口晴哉さんが愉気を始められたころ「手当てを宗教にも金儲けの手段にもしたがらなかった」という話を聞いた。
「教祖」になろうと思えばなれたのに、宗教法人は作らなかった
なぜなら「本来、その人に備わっている力を引き出すだけだから、これは不思議でもなんでもない。お金はとれない」と。
その言葉には深く共感した。
つまり、「合理的」=理に適っていることだからお金は取れない、ということ。
そのころオウム真理教や真光やさまざまな「合理的な西洋の価値観の行き詰まり」を説く新宗教に同世代の人たちが傾斜するのを感じていた。
有隣堂ルミネ横浜店にもオウムの機関誌が置いてあった時代である。
わたしも「合理的な西洋の価値観の行き詰まり」という見立てには、非常に魅力を感じていた人間であったが、真木さんから聞いた野口さんの言葉が残っていたので、踏みとどまれたのだと思う。
でも、「合理的」って悪いことばぢゃないはず。
理に適っているということなんだから。
非西洋的=非合理的なこと=スピリチュアル=深遠、というのはあまりに浅薄な見立てだと気づくに至った。
野口さんは「癒し」でなく「体育」を説いている。
「人間の持っている力に気付いて、その可能性を拡げる気構えで行動することが体育の中心であらねばなりません」
活元運動は、仲間のサポートを受けることもあるけれど、基本はひとりでもできる。
施術というサービスを買わなくても。
エステの延長的に、楽しい消費行為としてヒーリングとかスピリチュアルとかをビジネスとして展開していることに自覚的ならいいと思う、まだ。
誰が儲かっているのか?
その利益は誰の何に使われているのか?
そこはちゃんとクールに見つめていたい。
追記)
お金を払って、自分自身のことを話せる相手を見つけなければならないほど、日常のつながりが希薄で、孤独に陥っている人が多い社会だから、成り立つ「ビジネス」なのかもしれない。
不思議なのは、マルチネットワークビジネスとの親和性も高そうだという点。
先輩が二人ほど、スピリチュアルな場所を求める旅に出て、帰ってきたらネットワークビジネスにはまっていた。
水系、環境系、サプリメント系・・・。「自己啓発」というキーワードをはさんで、つながっているように、わたくしには見えます。