1858年の日米修好通商条約など欧米5カ国との条約により、横浜など5つの開港場に「居留地」を設置することが決まり、横浜は今の山下町、関内地区が居留地となりました。 この辺りは、当時は武蔵国久良岐(くらき)郡横浜村と呼ばれ、総戸数101戸、人口300人の小さな村で、村人は農3分、漁7分で生計を立てていたそうです。 その50年後に、森鴎外は横浜市歌で、当時の横浜を、 「むかし思えば とま屋の煙 ちらりほらりと立てりしところ」 (注:とま屋とは、粗末な小屋) と表現しています。 ここに居留地設定が決まったため、村人達は立ち退きを命じられ、多く(80数戸)は、西側の谷戸地に作られた貸長屋に移りました。幕府は、増徳院の門前に通りを作り、その両側に一戸辺り、間口7間、90坪の土地を貸与したのだそうです。 ここに移り住んだ村人は、かつて自分らが住んでいた横浜村の変貌ぶりを横目に見ながら、「本当の横浜村はここだ」という意味で、この地を「横浜本村(元村)」と呼び、それが「横浜元町」になりました。(左の写真は当時の「本村」) その後、山手も居留地になり、多くの欧米人が、毎朝晩仕事のために山手から、元町を通って山下町に通うようになり、この外国人を当てにした商売が始まり、今日の元町商店街につながりました。 |