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Re: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
【返信元】 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
2011年03月22日 23:26
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おいしいパンを買うのが贅沢な趣味で、この日も自転車で2時間ほどの石窯のパン屋さんからも帰り道をノンビリ・・。
小田急・東海大学前駅の近くの線路沿いに差し掛かったとき、歩いている人達の『時間が止まったような』何ともいえない不審挙動をあちこちに見かけて????。 そうなんです、自転車に乗っていると案外、揺れの影響がわからないのです。 そのうち、電線や建物が激しく揺れているのに気付き、慌てて自転車を降り、立っていられない状況で、その揺れの大きさに結構ビビりましたね。付近の家の中からもお年寄りが心配そうに・・、こういう時はお互いの声掛け行動が大切と思い、ニコニコと話しかけでみたりして。 やがて揺れが収まってきたので、自転車に飛び乗って帰途再開。 ところが、踏み切りにデンと電車が止まっており開かずの状態。これは待ってても踏み切りもラチも開かないと判断して、かなりの迂回を決断、遠回りながら何とか家に到着。 TVや棚などがヒックリ返ってないかをそっと確認するまでドキドキしながらも、その無事を確認してホッと気が抜けた。被害ゼロであった。 結局、その踏み切りも電車移動までの4時間くらい開かずの状態だったらしいので判断のよさに自分を誉めた。そう、急がば回れ。 こうした災害では、連絡手段がネック。電話は当然つながらず、メールは滞留の情報閉鎖。ところが、同様の通信断絶を想定したツイッターが、案に相違して実に調子良く使える。これだ!と思いましたね。神戸在住の息子にもツイッタ強制しささやかな親子フォローの道も開いたオチ。 つい最近も、ガソリン給油は諦めていたのですが、ツイッターで地元の人が『近くのENEOS店なら給油できるよ!』のつぶやき発見。駄目を承知でENEOSに行ったら行列なく満タン給油。(運転手の)カミさんに大変感謝された。それまでは、自転車専門の私が買い物係りとはいえ、ガソリンを買いには行けないですからね。 最近、NHKや横浜市、神戸市なども続々、ツイッターアカウント登録し、災害情報などを発信されているのをみて、ツイッターは完全に社会基盤としての市民権が認められたと確信したものです。 報道のありかたの変化。 情報が受け手が選択しながら取りに行く時代で、情報発信者は必ずしも垂直形メディアではない。リアルタイム&水平形であるツイッターはその現実をまざまざと証明していると思った。 長々の駄文でした。 by カール twitter.com/carlkazu |
Re[2]: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
【返信元】 Re: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
2011年03月16日 22:00
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OO24さん、下記に書きました、ほたてといいます。
ま隣の平沼高校にいたんですね。避難して岡野公園にいました。当時は知るよしもなく!15時過ぎでも平沼高校はグラウンドで野球?かサッカーをしている生徒さんがまだいた気がします。 鉄道仲間の方と連絡がつくことを祈ります。 |
Re: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
【返信元】 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
2011年03月16日 19:28
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■中程度の位置情報が少ない
関内から武蔵新城まで徒歩で帰宅しました。ランドマークタワー付近から横浜までは普段と変わらない光景でした。横浜駅付近からは国道1号線を多くの人と歩いていました。とりあえず、大きな川を渡ることが大事、それによって道が決まると思います。途中、1号線沿いでも停電となり警察官が誘導していました。大きな混乱は見られませんでしたが、大きな道を逸れると信号機はおろか自販機さえも消えているので怖かったです。それと電車が動いていなくとも駅や路線がどこにあるのかは指針となります。何県何市という大きな情報や丁目などローカルな情報はあるのですが目的地に移動するための中程度情報が少ないと感じました。 |
関内SEビルの壁面が崩れ落ちた
【返信元】 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
2011年03月16日 11:35
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関内は震度5強。かなり揺れました。
横浜スタジアム脇の関内SEビルの壁面が崩れ落ちました。 映像は、翌12日午後のものです。 |
Re: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
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2011年03月16日 02:20
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taroさん
こんにちは! 帰宅困難者受け入れ、とは余震も続くなか、ほんとうにご苦労さまでした。 横浜駅周辺で6万人という統計が出ていました。なので、MM地区が花火大会並み、のも頷けます。 MM地区でも、今回の地震の経験を共有するような、どこかで地域防災会議みたいなものが開かれるのでしょうか? 取材してみたいです・・・。 |
Re[2]: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
【返信元】 Re: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
2011年03月16日 02:15
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愛彩さん
はじめまして。 地域のつながり、と言っているわりには、わたしもマンション内など「物理的に近い人たち」とは、挨拶をかわす程度の仲で、なかなか励まし合ったり、ご飯を食べたり、というような間柄の人はいないのが現状です。 愛彩さんのマンションは、不幸な出来事をバネにして、ちゃんとつながりをつくろうとしているところがすごいですね。 日頃築いたそういうネットワークが、こうした非常時に効いてくるのですね。 高齢の世帯に混じって、ツイッターを使える愛彩さんのような存在の方がいることが、また、いろいろな情報が伝達されている道になっているんだな、と思いました。 また、気づいたことがあったら、ぜひ書き込んでくださいね。 よろしくお願いします! |
Re[2]: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
【返信元】 Re: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
2011年03月16日 02:11
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OO24さん
書き込みありがとうございます。 発生時、高校にいたのですね。いきなりそこから舞台上で泊まる羽目になるとは…。 若いだけに、交通網のチェックにすっと動けるのはうらやましい…。 そういう現場で得た情報をいかに効率よく、多くの人に伝達していくかが、大切ですね〜。 ご友人の安否、心配ですね。 連絡がつきますように・・・。 |
Re: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
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2011年03月15日 17:44
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http://sns.youthport.jp/blog/blog.php?key=36360
http://sns.youthport.jp/blog/blog.php?key=36361 詳細はブログの通りです。 地震発生時は大学の部室棟に居たんですが、結構強い横揺れが長時間続き、学生自治会の指示で建物の外に避難しました。揺れが収まった後、荷物を取りに一旦部室に戻り、その後すぐに津波警報が発令されたので、その時居た部の先輩や同僚らと共に大学から撤退し、辻堂の駅まで戻りました。ケータイが電話・メール共に全く繋がらず、駅前にあった公衆電話も使えませんでした。そこからはJRが動いていなかったので、バスで帰宅する事になり、辻堂⇒藤沢⇒大船⇒戸塚と一駅ずつバスを乗り継いだのですが、大船に到着した時点ですっかり日は落ち、更に周辺一帯が完全に停電して駅の非常用の明かりだけが点いていました。 大船⇒戸塚の間のバスで移動している間も、町の明かりは完全に消えており、信号も点いていませんでした。警察も居なかったので、正直、よく事故が起きなかったよなという感じです。戸塚に着いたときには、もう既に駅で泊まるしかなくなった人も多く見られました。横浜まで直通するバスが東戸塚まで行かないと無いということで、先輩二人と共に東戸塚まで徒歩で行きましたが、環状2号の下を潜るまで街灯なども無く、かなり危ない状態でした。その後、前方に見えた横浜行きのバスになんとか乗り込み、暫くぎゅう詰めの状態で移動しました。道路が物凄い渋滞で、車列が殆ど動かない状態でした。Y高前を通過し、吉野町に差し掛かった辺りで「地下鉄が運転再開した」という連絡が親から入り、先輩達とは吉野町で別れ、自分はそのままバスで横浜に向かいました(因みにこの時、バスは定刻より4時間遅れていた)。その後親から連絡で桜木町まで迎えに来てもらえる事になり、桜木町で親と合流し、何とか帰宅しました。大学は15時ちょっと過ぎに出たのですが、結局自宅に着いたのは午前2時頃でした。普段なら片道一時間半の道のりが、ほぼ10時間掛かっていました・・。 |
Re: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
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2011年03月15日 15:33
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Re: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
【返信元】 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
2011年03月15日 13:15
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タクおばです。
当日は鎌倉市役所で打合せの最中でした。 庁舎の4Fで環境部のみなさんとやりとりのさなか 対面していた方が「地震じゃない?」と。 徐々に揺れが大きくなったので これはまずいと思って妻の携帯を鳴らしましたが つながるまえに途中で切れました。 その間、お茶碗をよけたり、上着を着たりカバンに 荷物をしまったりして、ゆれが収まったところで戸外へ。 市役所は全員戸外に避難し、1Fで待機していると 2度目の揺れがきました。 市役所の職員や議員が大勢いるあたりにいましたが 「極めて普通の雰囲気」で、批判的な感覚を覚えつつ このあたりからツイッターのタイムラインで情報を取り始めました。 しばらくして、市役所業務は終了の旨通達があった後 庁内に戻ってよしとの放送があって、私は 無所属議員さんの控え室に入れてもらいました。 議会棟は自家発電装置があったため、 テレビとインターネットいずれもアクセスできました。 しばらくそのままの状態でしたが テレビが突然砂嵐に。 あとでわかったことですが、大船に有るケーブルテレビのベースの電源供給が止まってしまったのでした。 よってケーブルテレビ依存のインターネットもアクセスできず。 私のiPhoneともうお一方のスマフォンが情報源でした。 時間が経つにつれ、市内各所から駅にもどってきた観光客のみなさんが、市庁舎内の各署に避難してきました。 しばらくして、議会棟は電源が生きている、ということで議会の委員会室なども避難場所として開放。 食糧、毛布などがほどなく配られていたようです。 市内の電力供給再開とほぼときを同じくして、テレビ、インターネットも再開。 大津波警報が出たままだったので、由比ヶ浜の友人が泊まりに来いとの誘いを断って、そのまま市役所に滞留。 その後、23時過ぎまで外国語情報発信のツイートなどを展開したりしていましたが、小田急線が深夜運転という情報をみてしばし悩んだうえで、同じ部屋にいた議員さんに車で藤沢駅まで送っていただき、3時40分頃駅着。 小田急線は3時45分発相模大野行きで移動開始。 途中、北越での地震がありましたが、相模大野に4時30分ないし35分ごろ到着。 相模大野では、それまでの臨時運転から切り替わって、通常の始発と同じ4時55分準急新宿行きに乗って5時35分に下北沢着。 妻子は地震のときに、友人の運営するフリースペース@笹塚ですごしていたため、下北沢から笹塚まで20分であるき、6時ちょうどに目的地到着でした。 ・鎌倉市役所でのできごとを振り返って <テレビとネットが使えなくなった> 議員控え室とはいえ、ケーブルテレビとインターネットがいっぺんにダウンしたのは驚きました。 バックアップや代替手段が常に必要で、「ALL××」のリスクを実感する経験でした。 <観光客への対応> 深夜小田急線に乗る前に、市役所職員に帰路についての意見を求めるも特段のアイデアをいただくことはありませんでした。 鎌倉は観光地としての側面が町の重要な部分をしめているのに、防災の観点からはとくになんの準備もしていないということがわかりました。 たまたま当日の議会でも備蓄の市内展開が人口ごとの均等配分になっているところ、観光客対応として中心部への重点備蓄を提案したところだったようです。 ただ、特段そのことで混乱していませんでしたが、激甚災害の当該地なったら、、、と思うと 各種警報との兼ね合いで、市役所としてのアクションはとりにくいだろうと思いつつ、いろんな設計はできるよな、と思いました。 ・各線の運転状況に応じて、鎌倉近隣の駅までの送迎を手配する(藤沢駅、新逗子駅など) <災害直後の議員さん> 私は2名の議員さんといっしょに控え室にずっといましたが、議員さんに特段のオペレーションがないのが意外に思えました。 その他、いろいろあったはずですがとりあえずここまで。 |
Re: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
【返信元】 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
2011年03月15日 13:10
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千代田区まで働きに行っているので、帰宅難民になりました。
横浜から通勤している同僚4人と品川まで1時間30分歩いて、友人宅に一晩お世話になりました。他の帰宅難民に比べれば遙かに恵まれています。 一方、両親が福島県浜通り出身のため、母は横浜に住んでいますが、一族郎党が多くすんでいます。一番心配なのは、双葉町の厚生病院の医師をしている従兄弟です。浪江町の叔父夫婦とも連絡が取れていません。高齢で携帯電話など持っていないので、まったく音信不通です。先ほど屋内待避の指示があった原発から30㎞の範囲にある、南相馬市、鹿島町、田村市、大熊町にも、おじやおばが多数すんでいます。 一族郎党どこに行けばいいのやら…。 |
Re: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
【返信元】 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
2011年03月15日 12:52
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はじめまして。シーと申します。普段はハマっち放置ぎみだったのですが…(ごめんなさい)このコミュで書かれた内容がメールで届くたびに居てもたってもいられなくなって自分もあの日のことを書きたくなりました。
私があの日体験したことは自分のブログhttp://ameblo.jp/philosophia39c/theme-10034171803.html に書きました。 長いのでこちらには貼り付けないでおきます。 今回一番ありがたかったのが、揺れがひどかった時に家の前でご近所の人たちと一緒に居られたことです。 斜面沿いに建つ我が家は家に居て崖が崩れたら…という恐怖心から危険とは思いながらも揺れたら外に出るようにしています。 同じようなご近所さんたちと励ましあいながら揺れをやり過ごしていたおかげで、恐怖心を共有できたせいなのか、怖さが半減した感じがしました。 電池を買いに走った時も、街のあちこちでお隣さん同士で外で励ましあっている姿を見かけました。 家族と、ご近所の皆さんのことを心からいとおしく思ってしまいました。 |
Re: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
【返信元】 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
2011年03月15日 08:25
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SNS愛っちの管理人デーヴ上田です。
愛知県春日井市の事務所で仕事中でした。 普段感じる縦揺れじゃなくて、長周期の横揺れなので 第一印象は「気持ち悪い」でした。ずいぶん長かったと 思います。 中程度の揺れでしたが、いつもと違う振動でしたので これは、どこか遠くで大きな地震があったに違いないと 思いました。 あれ以降、何度か現地及び上越・長野で大きな地震・余震が あるかと思いますが、ほとんどこちらは感じません。 本震がいかに巨大であったかです。 |
Re: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
【返信元】 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
2011年03月15日 07:22
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渋谷のオフィスにて、打ち合わせをしている際に第一回の地震(本震)が来ました。
最初は揺れているな、と感じてディスプレイなどを抑えていましたが、なかなか揺れが収まらないため、これは危ないと察知し、まずは周囲の方々の状況の確認。 そして、問題ないと感知すると、すぐに退避・対処できるように、自らの荷物をまとめ、出口付近から全体を見渡していました。 オフィスビルは比較的新しく、縦横に広く、高さも6階建てであったため、外に出るより安全だと考え、中で待機していました。外に出てしまうと、割れたガラスが降ってきたり、電信柱が折れてきたりと、中より危険な場合があります。 揺れが収まると、外の状況を確認。 幸いガラスが割れたりはしておらず、けが人もいないようでした。 インターネットで地震の状況を確認し、揺れが関東全域に及んでいる事を確認すると、すぐさま川崎にいる妻の安全を確認する行動に出ました。しかし、auおよびiPhoneから電話をかけましたが、まったくつながらず。 メールも返ってこないので、タイミングを見て数回電話。地震発生後の2時間程度経過後、たまたまつながり、妻の家族の安全を確認できました。また、田舎の親族に安全を知らせるために、メールにより連絡。 同時に、仕事仲間や友人の無事はfacebookおよびTwitterで知ります。mixiは無事を知らせる/確認するインフラとしては、機能していないようでした。 - 17:00 そのまま仕事をしておりましたが、17時ごろ電車の路線が次々と停止している事を知ります。既に、JRは本日全路線運休との噂が出ていました。 早期に対処しなければ、と帰宅の手段を模索し始めますが、まずは自宅周辺の状況をGoogleのリアルタイム検索(Tweetをキーワードから表示)で確認します。 そこから、丸子橋の信号が故障し、車が通れなくなっている事ならびに自宅周辺が停電している事を知ります。 現地の状況を撮影し、Youtubeにアップしている方もおり、Twitterは貴重な情報ソースとして非常に役に立ちました。 電車が使えないと認識し、バスも使えないだろう事を察知し、車での帰宅を考え始めます。タクシーもつかまらなさそうだったので、仕事の空き時間を利用しながら渋谷発のカーシェアリングを探し始めました。 みなさんも同様の事を考えていらっしゃったのか、カーシェアリングを予約するためのサイトにはアクセスが集中しており、非常にレスポンスが遅い状況でしたが、なんとか翌朝までの予約を確保。 - 20:00 109近くの駐車場から乗車しようとします。 延々と続く渋滞による長期戦を覚悟し、まずは腹ごしらえしようと飲食店に入ります。お店から出てくると、店に入る前後でアドトラックが数メートルしか進んでいませんでした。 これは渋谷を出るだけでも夜がふけてしまう、とカーシェアリングをキャンセルし、途中まで歩く事を決意します。 iPhoneでGoogle Mapを見ながら、渋谷から自由が丘方面へ東横線に沿って歩きます。 かなり長い道のりが想定されましたが、他の方々も同様のルートを歩いており、ナイトハイクのような気分でまったく辛くはなく。また、途中途中のコンビニエンスストアでトイレを拝借出来ますし、暖かい飲み物も手に入れられるので、特に不便もありませんでした。 一種のパニック状態ですので、暴動や乱暴などが起きる事を多少懸念していましたが、みなそれぞれ道を譲りあい、歩行者としてマナーを守られている方ばかりでした。 当初は、途中からカーシェアリングで車を手配する予定でしたが、1時間程度歩いたところで案外歩けるんじゃないかと思いはじめ、結局2時間かけて渋谷から自由が丘まで行きました。 歩いている途中、Twitter経由で東北の被災地の悲惨な状況を知ります。 -23:00 自由が丘につくと東横線が各駅で復旧したところでした。電車に乗り、妻がいる妻の実家へ着きました。 今回、携帯電話というインフラがいかに災害によるアクセスの一極集中に対して意外と弱いと感じた一方、インターネットの強さを改めて認識した次第です。 よくよく考えると、インターネットはもともと軍事用の通信手段として開発されたものであり、経路上に障害があったり、エラーが発生したとしても、問題なく通信できる構造になっています。 これまでは何かあっても携帯電話から安否を確認できるし、報告できると考えていましたが、今回脆くも崩れ去りました。 今後は、何かアクシデントがあった時の親戚などへの報告ルートとして、インターネット上の通信も規定しなければならないと考えた次第です。 |
Re: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
【返信元】 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
2011年03月14日 22:31
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地震発生時は、マイカル本牧あたりを北方面へ自転車で走っていました。
もともとでこぼこの地面だったからか乗っていると揺れにほとんど気づきませんでしたが、周りの建物から人が一斉に出てくるのを見て止まると気持ち悪くなるくらい揺れているのがわかりました。信号機を見ると一目瞭然でした。 おさまったかと思って、また進み始めると、道沿いのお店の店員さんもみんな外に出てきていて、書店で本がバサバサと床に落ちていたり、ただ事ではない感じだったので、いったん止まって事務所に電話しようとしましたが、まったくつながらず。とにかく早く戻ろうと思い、また漕ぎ始めました。車もバスも普通に走っているなと思ったけど、よく見ると信号が消えていて、横から入りたい車や横断歩道を渡りたい人が多少困っているようでした。 元町までくると信号も動いており、外で様子を伺っている人もいましたが、普通に買い物を再開している人も。美容院の外では、女性客がたくさんヘアピンをつけたまま外で待っていました。 中華街の朝陽門前にくると、ちょうどまた揺れが。門がぐらぐら揺れていて怖くなったので、海側に渡りました。 途中ホテルの前では、ウェディングドレスの上からジャンパーを着た花嫁さんもいました。 山下公園沿いに走っていると、園内放送で「津波の恐れがあるので海には近づかないで下さい、横浜スタジアム方面へ避難してください」と言っているのが聞こえましたが、海側にいる人には聞こえづらかっただろうと思います。そろそろと公園を出て行く人もいましたが、まだとどまっている人もたくさんいました。 シルクセンター前の広場でも、様子見のビジネスマンがたくさん。 なんだか物資を運んだりしている県庁の前を通って、関内桜通りの事務所までたどりつくと、みんな外へ出て、話し込んでいました。 インターンの二人にみんなの無事を聞いてほっとしたあと、ふと気がつくと、事務所が入居するビルと歩道の間に溝。ビルの角の歩道は、地面が盛り上がっていました。 向かいのタバコ屋でテレビを見させてもらったあと、おそるおそる(いつもは中まで階段で運ぶ)自転車は外に置いたまま中へ。ほとんど被害もなかったようでほっとしました。 刻一刻と伝えられる情報をネットで集めながら、電車が再開するまで待っていましたが、どうやら終日運休のよう。やっと連絡がとれ、車で迎えに来ようか?といってくれた母親とも連絡がつかなくなり、事務所に泊まろうかとも思いましたが、寒かったので、バスに乗ってみることにしました。 馬車道駅前で長いこと待って乗ったバスは一向に進まず、一時間半くらいかけてやっと桜木町あたり。ついにあきらめて歩くことにしました。 途中の教会には、「温かいお茶、トイレあります」の貼り紙。たくさんの人が暖をとっていました。 同じように歩いている人たちと横浜駅につくと、構内には座り込んでいる人がたくさん。タクシー乗り場もバスも長蛇の列で、いつ鶴見行に乗れるかわからないので、仕方なくまた歩くことにしました。 第一京浜沿いにひたすら歩いていると東京方面から来る人もたくさんいたし、道中停電もなかったのでたびたびコンビニに休憩に入ることができ、なんとかなりました。 生麦の踏切は棒が折れ、駅員さんがその部分に立って人が入るのを防いでいました。その奥のもう一つの踏切は、終日鳴りっぱなしにしていたようで、皆棒を押し上げて渡っていました。 川崎から歩いて帰ってきた母親によると、鶴見駅周辺は停電。運悪く車のバッテリーがあがってしまったが同じマンションの人に助けてもらい、代々木にいた父を先に迎えに行って結局夜中の4時前に帰ってきました。 はじめJAFに連絡したときは電話に出たおじさんに用件を伝えたあと「私事で恐縮ですが、鶴見は停電大丈夫でしょうか…?」と聞かれたそうです。 父とも携帯がつながらないためなかなか会えず、私が家に着いたあと父が公衆電話から自宅に電話してきて、私が事務所から借りたWILLCOMから母親の携帯にかけるとやっとつながり、間を取り持つかんじになりました。 |
3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
【返信元】 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
2011年03月14日 22:17
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その時間はみなとみらい4丁目にあるアニミにいました。
車いすを使っているので、揺れには敏感です。 最初に来たと感じました。たいしたことないなと思っているとどんどん大きくなってきてしまい、お客さんに外にでて貰って最後に店を出ました。外に出ると、ランドマークタワーが揺れてる揺れてる。キャッツシアター近くの建設中のビル屋上にある建設用のタワーが怖いほど揺れている。 その後、朝まで帰宅困難者を受け入れていました。 花火じゃないのに歩道を埋め尽くす人はすごかった。 |
Re: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
【返信元】 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
2011年03月14日 19:46
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3.11 地震当日は、父の葬儀準備の為、千葉の実家におりました。
千葉から横浜の自宅に戻る交通手段も無く、横浜の自宅の状態が分からず不安な状況下に助けになったのは、今年年初に発起した、マンション居住者のサークルメンバーとのメール連絡でした。 サークルは、昨年末にマンション内でご高齢者が孤独死をしたことから、普段から交流を持ち声をかけあいましょうと集まったメンバーです。 メンバーの中には、単身高齢者世帯もおります。 皆様60代70代のご高齢。 それぞれの安否をメールでやりとりし、被害状況の確認。 横浜に戻ることはできませんでしたが、何かあれば、ご近所様がいる。。。それだけで、とても心強かったものです。 停電に関する情報も、互いに情報交換をし合い、備えることが出来ました。 今回の災害を通じて思ったのは、日常からのご近所付き合いの大切さ。 地域コミュニティの大切さです。 中区在住のマンション暮らしですので、とかく近所づきあいが希薄になりがちです。 イザという時に互いに助け合いの出来る仲間が近くに存在するというだけで、非常に心強いもの。 今回の経験をキッカケに、今後も、地域コミュニティの活性化に貢献したいと強く思いました。 後は、情報収集の手段として一番有効だったのは、ツイッター。 停電情報、交通情報など、ツイッターでの生の発信は、横浜に戻るにも、友人・知人の安否確認にも、非常に有効となりました。 |
Re: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
【返信元】 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
2011年03月14日 19:16
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地震発生時は、横浜平沼高校におりました。ラボの森山と平沼高校演劇部のメンバーと春フェスで発表する演劇の稽古中でした。
小ホールはかなり揺れました。収納している客席がバタンバタンと音を立て、こちらへ転がってこないかが心配でした。 その後、視聴覚室のTVをつけたら、津波が田畑の中をものすごい速度で進んでいる様子でショックでした。 母親と父親は連絡が取れました。母は妹が大倉山にいるので迎えに行けと言うのですが困難。結局妹は友人宅で宿泊となりました。 当日、平沼高校は教科書販売で親御さんと新入生がたくさんいたようで、小ホールに皆が入ることになりました。私たちは横浜駅へ鉄道の運転状況を確認に行きましたが、不通で、私は小ホールの舞台上で一夜を明かすことになりました。 夜に、学校に保存されている乾パンと水を配布し、その後毛布を配布、また保護者の方が寝るために畳を出したりもしました。 私たちの分の毛布は無く、靴下でスリッパも無く、さらに保護者の方と違い舞台上だったため、天井につるされている照明バトンが落ちないか心配だったこともあって寝られず朝を迎えました。 4時の時点でもう一度運転状況を確認に行き、小ホールで全体に教員を通して伝え…結局8時頃に高校を出ました。 私たちは高校生が多かったのでtwitterなどの情報がすぐに入ってきましたが、東北の地域ではなかなかUSTやtwitterの情報も入らない可能性があります。 やはり地域の情報をまず入手することが大事だなと感じました。 正直民放は交通情報も遅れていました。全くあてになりません。 私はtvkとNHKしか見ませんでした。 あとは報道分布も必要な気がします。いつまでも不安を煽る不確かな情報だけでなく、安否情報のみを流し続ける番組、交通情報だけの番組、地震の最新情報だけの番組、原発情報だけの番組、記者会見だけの番組などにしぼらないと、今やっている情報でもいつの情報なのか分からないまま切り替わり訳が分からないなぁと感じました。 ちなみに演劇の稽古の発表場であった横浜市高校演劇連盟主催の春フェスは中止となりました。 僕の友人の鉄道仲間も、気仙沼線を浜辺で撮ると言って東京から撮りに行って、未だに安否不明です。 どうにか助かってもらいたいものです。 |
Re[2]: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
【返信元】 Re: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
2011年03月14日 19:15
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ほたてさん
繁華街での揺れ、一時避難場所での体験、書き込みありがとうございました。 みなさんかなり、頑張って歩いて帰宅されているのですね。 関内にあるわたくしの事務所があるビル前も、地面が隆起していましたが、横浜駅西口にもそうした場所があったんですね。 余震が心配です。 通信に関する具体的なアドバイス、ありがとうございました! |
Re[2]: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
【返信元】 Re: 3.11 地震当日のまちの記録・家族の記録
2011年03月14日 19:10
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つぼやんさん
保育園のお迎え、ふだんでも時間とのせめぎ合いなのに、地震発生ともなると、子どもの顔を見るまでがほんとうにもどかしいですね。 たとえ、時間に余裕があったとしても、やっぱり走って迎えに行ってしまったのではないでしょうか?それにしても、保育園や学校などは複数の情報発信ツールを準備しておいてもらえると、親も情報を得て、もう少し気持ちに余裕を持てるのに…と思います。 しかし・・・やはりオフィスにはスニーカーを一足準備しておくのは大切ですね。 |
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