3.11午後。カタカタと小さな音を立ててはじまった地震はやがて大きな揺れとなり、システム監視用のモニタなどが前後に激しく揺さぶられていました。 職場ビルは、免震構造の建物であるため、まだ揺れがすくないはず。 だとすると外はどうなっているのか・・・。 浮かぶのは2人の娘の顔ばかりでした。 間の悪いことに携帯を忘れていた私は、あまりの混乱に義母宅の電話番号も思い出せず、アナログツールの危機耐性を思い知ることとなりました。 地震が収まった後、職場ではシステムの通信状況を確認する作業が続きますが、正直なにも手につかず、数十分後に、あとで連絡を入れることを条件に帰宅を許され職場を飛び出しました。 タクシーを捜しながら4km程度の道のりを歩き始めてしばらくすると、幸運にも空きタクシーが来たので飛び乗り、長女の小学校へ着くと、ちょうど義父の車に乗り込む長女の姿が。 まずはほっと一息ついたところで、次に次女の保育園へ。 しかし、保育園に着くと、卒園遠足先の鶴見区から戻っていないことが判明。 同行した先生とは連絡が取れているとのことで安心したものの、道路状況の混乱を見ると帰りがいつになるのか予想もつかないとのことでした。 保育園で待つことはできたのですが、下の小さい子供を連れているお母さんもいたため、保育園近くの私の自宅で待機することにして4時間後、ようやく子供達を乗せたバスが園に着いた時はほんとうにほっとして涙が出てきました。 その翌日には、息子を伴って主人が赴任している長野県の野沢温泉村でも震度5弱の地震が発生。 幸いにも発生直後に連絡は取れて無事は確認できていたものの、震源の近くであることと、遠く300km離れた先のことだけに、心配で胸が張り裂けそうでした。 大自然を前にしてなすすべのない人達に残されたものは、なんだったのでしょう? ちっぽけな自分を省みること、地球の限りある資源を実感すること、つながりや絆を取り戻すこと・・・きっとそれぞれの人の胸にいろいろな思いがよぎることと思いますが、失われたたくさんの命のためにも未来をあきらめずにより良いものにしていくことだけが、私たちのできるすべてなのかなと、震災後の「非日常」が漂う街を見ながら思うのでした。 |