馬車道通りにアイスクリーム記念碑の「太陽の母子像」(左の写真)があります。町田房三という人が1869年(明治2年)に、日本で最初のアイスクリーム屋(氷水屋)を始めた所だそうです。 町田房三は、万延元年(1860年)の遣米使節団の一員として、船上で生まれて初めてアイスクリームを食べ「また珍しきものあり。氷をいろいろに染め、味は至って甘く、まことに美味なり。これをアイスクリンという。」と日記に書いています。 当時のアイスクリームは、茶筒に材料を入れ、手で1時間半から2時間回し続けて作ったそうです。使った氷も天然氷で、函館から切り出して、船で運びました。 最初の年は全く売れませんでしたが、2年目に伊勢山の大祭で茶店を出して売ったところ、バカ売れしたそうです。 真ん中の写真は、山手にある通称「ビアザケ通り」の標識です。 ノルウエー生まれでアメリカ国籍のウイリアム・コーポランドが、この地に”スプリング・ヴァレー・ブルワリー”(=ビール醸造工場)を建て、1870年(明治3年)からビールを作り始めたのが、日本で最初だそうです。当時は「ビアザケ」と呼んでいたようです。 その工場はいくつかの変遷を経て、今の麒麟麦酒の母体になりました。 麒麟麦酒が、コープランド生誕150年を記念して、1984年に出した「ビールと文明開化の横浜」という本には、当時のビールのラベルや、ちょんまげを結った若い侍が楽しそうにビール(ビアザケ)を飲んでいる写真(右の写真)が載っていて、楽しいです。 アイスクリン同様に、万延元年の遣米使節一行が船の上で飲んだのが初めてのようで、その一人仙台藩士玉虫左太夫は「苦味ナレドモ口ヲ湿スニ足ル」と日記に書いています。 現在このコーポランドの工場の跡は、「北方小学校」と「麒麟園公園」となっています。 そのほか、ハム(その後鎌倉ハム)、パン(その後ウチキパン)なども、この時代に外国人を相手に作り始め、次第に日本人に浸透して行きました。 |