■バックナンバー
■RSSフィード
RSS 1.0 RSS 2.0 Atom 1.0
■このブログのURL
http://sns.hamatch.jp/blog/blog.php?key=5882
2008年06月12日(木) 
この写真(左)、何でしょう?

馬車道にある 「日本写真の開祖 写真師下岡蓮杖」 の碑です。上に乗っているのは、昔のカメラのようです。

下岡蓮杖は、文政6年(1823年)に伊豆の下田で生まれ、絵を描くのが大好きでした。

幕府御用の絵師、狩野薫川法眼の門人となって絵を学んでいた21歳の頃、オランダ船の持ってきた銀板写真を見る機会があり、「絵筆で苦労してものを描くということは、なんとバカらしいことではないか」と感じ、写真術を学ぼうと、外国船の来る浦賀に移り、更に万延元年(1860年)には外国人が多いと聞いた横浜に移り、ついに、1862年野毛に、わが国最初の営業写真館「金楽堂」を開業しました。

当時は、写真はキリシタンバテレンの摩訶不思議な魔法であり、写真に写されると魂を吸い取られる、と信じられていたような時代でしたので、失敗しました。

その後、弁天通りで、外人相手に日本の風景画を売って成功、その金で本格的に写真館を再開、明治元年(1868年)に馬車道に、富士山を形どった看板、「不二屋」というノレンを掲げた店「相影楼」を出しました。
(右の写真です。富士山を真ん中に、「金楽堂」「相影楼」の両方の看板が掲げられています。)

蓮杖の写真館は、文明開化の波に乗り成功を収め、元町に住んでいた唐人お吉とか、当時の花形力士、雷電や不知火なども、ノレンをくぐったそうです。

明治5年(1872年)に横浜-新橋間で開通した鉄道の記念写真も撮ったそうです。

(なお、日本の写真技術の開祖は、西の上野彦馬(ほぼ同じ頃に長崎で)、東の下岡蓮杖と言われているそうです。)

閲覧数4,821 カテゴリ横浜開港150周年 コメント2 投稿日時2008/06/12 07:15
公開範囲外部公開
コメント(2)
時系列表示返信表示日付順
  • 2008/06/12 11:44
    蓮杖氏は、現在誰もが携帯でパシャパシャやっているのを見ると何と言うのでしょうかね。
    次項有
  • 2008/06/12 13:26
    北埜 里一さん

    大島昌宏が書いた小説「幕末写真師下岡蓮杖」には、写真の現像等の技術を習得するのに、なかなか教えてもらえなかったり、薬品の調合比率についてウソを教えられたり、苦労した様子が描かれています。

    撮る方も大変でしたが、撮られる方も忍耐力が必要で大変だったと思います。

    携帯カメラ、デジタルカメラ、などを見たら、本当にビックリするでしょうね。
    撮ったものを、何も処理せず、その場で見れるのが一番ビックリするかな?
    次項有
  • 次項有コメントを送信
    閉じる
    名前 E-Mail
    URL:
■プロフィール
横浜学事始さん
[一言]
3代目ハマっ子です。
■この日はどんな日
書き込みはありませんでした。
■最近のファイル
■最近のコメント
■最近の書き込み