開国博低迷と言われることについて。
関わらせて頂いた当事者として思う事をツラツラとここに残したいと思います。
価値観が多様化している現在。
(受け入れられるにせよ、受け入れられないにせよ)この多様化ってこと、素晴らしいことだと思います。
多様化しているからこそ、評価の基準だってひとつじゃない、そう思います。
開国博を「入場人数の低迷」という数値上のことだけで判断するのは、この多様化の時代に逆行していますよね。
もちろん、反省や課題はあるかとおもいますし、「なんでこれやらなかったのか?」「どうして出来なかったのか?」については聞きたい。だって今後に活かすための議論には欠かせない事ですから。
これは「これからもやっていこう!」「ここだけに終わらせないぞー」と、これからもポジティブにやっていくために絶対に必要なことなんです。決してネガティブなことを聞きたい訳じゃありません。
それにしても、一過性の、爆発的な何かを期待するっていうことばかりに神経を尖らせるという事、この際横においておいて。他にも目をむかせてください、といいたいですね。
多くの市民にとって開国博の市民企画で関わらせていただいたこと、これからの活動につながる大きなパワーになりそうな予感がしています。
こっちの方が価値があると思います、入場数云々より。
ベイサイド市民協催への参加は、私がやりたかった事、これからやっていきたいことを精査する大事なステージとなりました。
また、やりたい事を実現するために、発信するためには「ひとのため」「ひとの役に立っている、だからやる」という部分が大きければまず無理だなあ、ということもわかった一年になりました。
私は子供たちへ、次世代に「農業とものつくりの文化を残していきたい、継承していきたい」というテーマでここ数年、農業とものつくりの人たちを応援する事を目的とした場作りをしてきました。
これ、本当にコドモたちのためなのか?
と結構真剣に考えてみました。
私はいま、目の前にいる、自分のコドモを含めて、コドモたちの将来に不安を感じたとき、胸が詰まる思いをします。
コドモが熱を出し、苦しそうなとき、かわってあげたいと思うのです。
とにかく、コドモが幸せならば、自分自身が一番幸せになれるというのって、親ならば誰でもそうじゃないんでしょうか。
だから、私はこの世とさよならをするときに、コドモが幸せであり続けられると確信したならば、心穏やかに旅だつことができる、そう思います。
私がやっている事は、全ては自分のため。
自分主体で考え、動くようになってから、とくに開国博の広報を、自分のために頑張ろうと思いました。
カリスマブロガーの情報発信というのは大きな力を発揮します。
カリスマでなくても、開国博がいかに面白いか、楽しいかを発信する事で、それが点の発信であっても、発信数が大きくなれば、俄然力を発揮するという事は素人であってもわかります。
私は開国博に関わるひとたちが、一人でも多く、もっと自分たちの取り組みが素敵なのかを、いかに楽しい場が待っているかを発信していったらいいのになあ、と思ってます。
時間なんて関係ない。
まだまだ時間はあります!!
(ふう、ようやく書き換え終了〜)携帯からの編集は文字数が制限されているようで、編集画面ですでに文章がざっくりと削られていました。
ということで、いまトモダチのPCから更新しています〜極楽、極楽。快適ですね、PC〜♬