地方都市にてシュリンクが急速に進んでいる。縮小する都市ということ。日本においては人口減少に向かっているわけで、拡大が成長だった時代は終わりを告げ、縮小することに成長をみいださなければならない。それは「人」でも「経済」でも「産業」でもある。 コンパクトシティという考え方もある。都市機能と生活機能を中心に集約し、郊外への展開を抑えるという考え方。すべてをなるべく移動を伴わない範囲に収めるという意味で効率化を測るのがねらいの一つだ。青森なんかは、除雪費用を抑えるためにこの施策を施したし、昨日訪問した宇都宮も政策でコンパクトシティをうたっている。 この縮小とコンパクトはまったく違うものであるべきだ。縮小には合間合間に緩衝帯とも言えるべき隙間が出来るわけだし、コンパクト化はどちらかというと、一部の密集と高層化から閑散とする郊外部が形成される。 どちらがよいという訳ではない。シュリンキングは既成事実であるわけで、それはコンパクトシティを形成するなかでも縮小は始まっているケースもある。 宇都宮に行ってとにかく悩んだ。こんな街に降り立ったことはなかった。 中心市街地は中途半端に高層化がすすみ、郊外は閑散としている。隙間だらけだ。そしてメインストリート、オリオン・ユニオン通りの商店街が、非アグレッシブな感じ。ただし通行する人はアグレッシブ。日々の喧騒にもまれている我々はこの両極ハイブリッドな状態におかれてしまっている状況に助けを求めてしまいたくなる。かつて抜群の眺望を誇っていた二荒山神社も、目の前にタワーマンションとテナントビルが立ち並び、見ていられない。 そんな中心市街地からはとっとと逃げ出したくなる。 コンパクトシティ政策の失策である。コンパクト化の中でシュリンキングが始まってしまったのだろうか、集積が中途半端で、空きが目立つ。無駄に高い箱が建っている。その反面、郊外へ大規模ショッピングセンターなどができないように規制されているので、中心市街地の商人たちはぬるいのである。 では郊外の住宅地はどうか?シュリンキングが進む中で、その隙間を生かして人と人がつながる仕組みをうまく創りだしているではないか。 この人たちには中心市街地がどうだなんてことは、関係なく、高層化しかし空虚な空間になるのを俯瞰しているだけでよいのだ。それはもしかしたら首都にも向けられているかもしれない。 もうそこから帰れなくなる町として萩原朔太郎や村上春樹が「猫の町」と書いているが、彼らは何かに取りつかれたかのように、俯瞰し、自分の生活と時間をつくるまちに幸せを感じている。 僕はその辺りに猫の町を感じた。東武に乗り新幹線に乗り継ぐにオリオン通りを通らねばならない。 僕は何かに取りつかれたし、それは拭いきれない気がしたし、あの妙な通りを歩きたくないという気持ちから、猫の町を思い出すしかなかった いい街だ。 やはり人が街をつくるのだ |