そうそう、富士山に登りにいくということをよくやってるんだ~といってました。体力には自信があるって。
詳細はまだ不明ですが、2月21日に偲ぶ会がありますね。私は午前別のシンポジウムに出ますが、午後は参加したいと思っています。
私が原さんとあったのは、市民活動をはじめたばかりのころ。2002年だった。ぱどの名刺を持って交流会で全員に配っていた。だから当時、右も左もわからない控えめな私も名刺をもらい、「ぱどタウン」をはじめたばかりで、ぜひ見てください、とていねいな言葉でいわれたんだ。 それから私は「つづき交流ステーション」の前身となる「都筑の魅力探検隊」にかかわった。それらの発信をするたび、原さんにとっても評価されてけっこうモチベーションになっていたと思う。いつも原さんは私をほめてくれた。絶対に人を否定しない人だった。 たとえば、シンポジウム、総会、交流会などのしきりがとってもうまくて、必要な物品ややることリスト、スケジュールなどを整然としたテキストベースで送り、まわりの人たちにわかりやすく情報を共有し、理解を促していくやりかたは彼から学んだ。 私はときどき、彼が身を粉にして市民活動をしているのをみて、心配した。この人は本当に楽しんでいるの?総会の資料づくりとか、いろいろ、いろいろ。うちあげのときには、机や椅子を並べること、ケータリングの手配まで、汗だくなってやっているのをみて。 そう、自らが手を動かし、フィールドワークする人だった。 私が市民活動での悩みを相談したときには、お茶につきあって話しをいつまでも聞いてくれた。具体的な解決にならないこともあったけど、「岩室さんはちゃんとやっててえらいよね~」とほめてくれると、すごくほっとする。そんな存在の人だった。 ちゃんと話をした最後になったときのテーマは「市民活動にいかに価値をつけていくか?」とか、そんな話で議論した。私はその日、基本的に彼の考えには同意しなかったと思う。でもそういう議論が今後の大事なテーマだね、と共有したと思う。 いちばん最後に話したのは、なくなる前々日だったと思う。ZAIMにいてアーカイブの打ち合わせを楽しそうにしていたから、あまりじゃまできないなって、原さあん、と声をかけると手をふって、私はスパ対決見に来てね、といった。 それが最後。 悲しすぎる。 なくなったから美化するわけじゃなく、彼は、本当に「いい人」すぎて私には納得いかないくらいだった。彼のことを悪くいう人を知らない。聞いたことない。 お葬式にでられないと知って私は内心ほっとした。私はお葬式でられない、でたくない。取り乱すに違いない。それを原さんに見られたくないから。 原さん。 地震EXPOのサバイバルキャンプでつくった、ソースせんべいのお好み焼き、おいしかったよね。一緒に足湯をやったよね。私が提案するとすごくうれしそうになんでも手伝ってくれた。 一緒に司会をしたことも何度もあったよね。 ごめんなさい。 今日は泣きたくて。 |