私が原さんとあったのは、市民活動をはじめたばかりのころ。2002年だった。ぱどの名刺を持って交流会で全員に配っていた。だから当時、右も左もわからない控えめな私も名刺をもらい、「ぱどタウン」をはじめたばかりで、ぜひ見てください、とていねいな言葉でいわれたんだ。
それから私は「つづき交流ステーション」の前身となる「都筑の魅力探検隊」にかかわった。それらの発信をするたび、原さんにとっても評価されてけっこうモチベーションになっていたと思う。いつも原さんは私をほめてくれた。絶対に人を否定しない人だった。
たとえば、シンポジウム、総会、交流会などのしきりがとってもうまくて、必要な物品ややることリスト、スケジュールなどを整然としたテキストベースで送り、まわりの人たちにわかりやすく情報を共有し、理解を促していくやりかたは彼から学んだ。
私はときどき、彼が身を粉にして市民活動をしているのをみて、心配した。この人は本当に楽しんでいるの?総会の資料づくりとか、いろいろ、いろいろ。うちあげのときには、机や椅子を並べること、ケータリングの手配まで、汗だくなってやっているのをみて。
そう、自らが手を動かし、フィールドワークする人だった。
私が市民活動での悩みを相談したときには、お茶につきあって話しをいつまでも聞いてくれた。具体的な解決にならないこともあったけど、「岩室さんはちゃんとやっててえらいよね~」とほめてくれると、すごくほっとする。そんな存在の人だった。
ちゃんと話をした最後になったときのテーマは「市民活動にいかに価値をつけていくか?」とか、そんな話で議論した。私はその日、基本的に彼の考えには同意しなかったと思う。でもそういう議論が今後の大事なテーマだね、と共有したと思う。
いちばん最後に話したのは、なくなる前々日だったと思う。ZAIMにいてアーカイブの打ち合わせを楽しそうにしていたから、あまりじゃまできないなって、原さあん、と声をかけると手をふって、私はスパ対決見に来てね、といった。
それが最後。
悲しすぎる。
なくなったから美化するわけじゃなく、彼は、本当に「いい人」すぎて私には納得いかないくらいだった。彼のことを悪くいう人を知らない。聞いたことない。
お葬式にでられないと知って私は内心ほっとした。私はお葬式でられない、でたくない。取り乱すに違いない。それを原さんに見られたくないから。
原さん。
地震EXPOのサバイバルキャンプでつくった、ソースせんべいのお好み焼き、おいしかったよね。一緒に足湯をやったよね。私が提案するとすごくうれしそうになんでも手伝ってくれた。
一緒に司会をしたことも何度もあったよね。
ごめんなさい。
今日は泣きたくて。