人は結論、結論と言って、その都度そこにある状態を評価し、悪い結果と判断すると何かを責める。 つまり、人は無限の連続性の中で変容し続ける物理的現象をある瞬間で分断し、そこをある一つのスパンの終わりと仮定しているわけだが、本来この宇宙にはスパンなどないし、もちろんその終わりも存在しない。 それらは人の観念が創り出したものだ。 今良いと感じても今後どう事が転じるかわからない。 今悪いと感じても今後どう事が転じるかわからない。 そしてそもそも出来事に良いも悪いもない。 ただ必要なことが起こるだけだ。 しかしだからと言って、"体験している出来事を評価するな"とは言わない。 それはあなたの自我が過去に学んだ基準に基き、半ば反射的に生じるものだから。 そしてその基準は、人や社会が抱える固定観念をそのまま請け負ったものだ。 しかしあなたがたは、その基準が実は曖昧なものである事を知っている。 にも関わらずあなたがたはその基準に従い続けてきた。 自我と共にある以上、評価を消し去ることは出来ないが、必要以上それに翻弄されない在り方を獲得することは可能だ。 過去にあなたは、こういうことは良いことで、こういうことは悪いことだと出来事を評価する基準を学んできた。 そして沢山の基準が今あなたがたの中にある。 例えば、 得るのは良いこと。 失うのは悪いこと。 これは代表的な固定観念だ。 多くの場合この観念は、あなたがたに苦しみを与えている。 まずそれを自覚することからはじめるといい。 お金を例に書くと… もし仕事が上手くいってお金が入ったなら、あなたは喜ぶだろう。 しかし次の瞬間、あなたはすぐそれを失うことを心配しはじめ、実際お金が失われると落胆する。 また今後お金が入ることがあるのだろうか?と未来をイメージし心配する。 人は不安になると様々なことをコントロールしようとする。 しかしあなたがコントロールしようとする人の行為や出来事などは、あなたのコントロール外にあることだ。 コントロール出来ないことをどうにかしようとする行為は、当然のこととして困難な状況を生み、あなたは疲弊する。 競争相手を妨げることも、あなたがたが行ってきたコントロールの方法の一つだ。 その後運よくお金が得られるとあなたはほっとっする。 しかしまた次の瞬間にはそれを失うことを心配する… 日々の生活を送る中で、あなたがたがいかに多くの時間を心配に囚われ過しているかが良くわかるだろう。 あなたがたは小刻みに良し悪しを判断し一喜一憂しているが、もしそれに疲れたなら、切り取るスパンの範囲を少し広げてみることをお勧めする。 ある瞬間悪いと感じたことが、時間の経過の中で何か良いと感じることをもたらしてくれた経験が誰しもあるのではなかろうか? 良し悪しの判断とは、その瞬間だけに焦点をあてているから生じ得る判断なのだ。 もしあなたが今いる一点を遠くから離れて見たなら、時間軸から離れ物事の成り行きを眺めたなら、今の状態が悪く見えても、さほど気にならなくなるだろう。 その評価が、長い連続性のある部分を切り取った一瞬についての判断であり、またそれが時の流れと共にどう転じていくのかわからないことが認識出来るからだ。 つまり長い目で見た時、良し悪しの判断が曖昧になって来るのだ。 全ての出来事は、あなたがたの意識に変化をもらたらすために存在する。 良いと感じる出来事も悪いと感じる出来事も。 あなたから何かを奪うために存在するものはない。 物理的な事柄に焦点をあてた場合、奪われたと感じることがあるのはわかる。 自我とは物理次元に焦点をあてた意識だ。 だから自我は何かを得たと感じたとき喜び、失ったと感じるとがっかりする。 そして自我に焦点をあて一喜一憂し続けることは、あなたがたにとってとても大変なことなのだ。(もちろんその落差を楽しむことも出来る。) でも、あなたの本質である魂、本当のあなたは何も失うことはない。 そして何も得ることはない。 魂の視点から見たとき、あなたは得ることも失うこともない存在であり、常に完璧な状態"光"としてある。それがあなたがたの本質だ。 そして魂に焦点をあてることは救いにつながる。 あなたがたの中には常にその両方の在り方が存在していて、そのバランスによって、苦しみが多い人、苦しみが少ない人という差異が生じる。 あなたがたの多くは、最近自我という乗り物をのりこなすために教習所に通いだした初心者だ。 そして、自我の運転者としてはビギナーであるあなたがたにまず与えられる教習が、切り取るスパンを少し広げてみる試みだ。 それは時間軸の一点に埋もれている状態から脱し、時間軸から少し離れて時間軸を見渡す練習だ。 (あなたは、そんなこと知っていると言うかもしれない。でも苦しみの中にいるとき、大体の場合あなたがたはそれを完全に忘れいている。) それを練習すると次第に、細かいスパンに分断されていた各々の境界線があいまいになり、分断されていた出来事がつながり、さらには全ての出来事に連続性が感じられるようになってくる。 同時に、沢山の結果が消え去り、その時々に下した沢山の結論(良し悪しの判断)も同時に無意味なものとなる。 また大きな連続性が見えてくると、あなたが歩んできた道、これから歩んでいく道が、あなたの魂の望みに従ったものであることがはっきりと認識出来るようになる。 そこに至った時、その道はとても安心感に満ちたものに感じられるようになるだろう。 何も心配はいらない。 あなたがたはいついかなるときも光へ向かう道を歩んでいる。 それ以外はあり得ない。 ある地点から見た時、闇へ向かっていると感じられても、さらに離れた地点から見た時、実はそれも光へ導くための途中経過に過ぎないことがわかるだろう。 (だから闇を恐れる必要は一切ない。それどころか闇もあなたがたの意識に変化を生み出すために必要な要素なのだ。) 起こることや今の自分の在り方を信頼し今という瞬間を歩むためには、また評価に一喜一憂し疲れ果てることがないようにするためには、時々時間軸から離れ出来事につながり(連続性)を見出すことが役に立つ。 自我がささやく評価の基準に翻弄されているとき、あなたがたは苦しみの中にある。 そのときあなたは固定観念の海におぼれ、時間軸の一点に埋没し大きな流れを見失っている状態にある。 そんなときは、瞑想をするなどしてリラックスした状態を獲得するよう心掛けるといい。 瞑想は思考、固定観念、判断・評価のない世界にあなたを連れ出してくれる。 それは自分を思考の海から救い出すことを意味する。 宇宙には無駄なことは一つもない。 全ての出来事が、あなたがたのリクエストに準じている。 寸分のずれもなく。 そして宇宙に結論などない。 無限の連続性が存在するだけだ。 (もちろんそれは時間軸があると捉えた場合の話だが。) あなたがたは今、自分自身で生み出した結論という瓦礫の荒野を歩んでいる。 それはあなたがたにとってとても困難な道であるように感じられるだろう。 しかし、結論に囚われなければあなたの振動数が上がり、瓦礫をすり抜けることが可能になるだろう。 さらにあなたさえその気になれば結論を生み出さないことも可能だ。 結論を生み出さなければ、当然の事として道はとても歩みやすい快適なものとなる。 そう、あなたがたの歩む道を困難にしているもの、それがあなたがた自身が事あるごとに下している評価であり、判断であり、結論なのだ。 もしあなたが疲れているなら、答えを急がず長いスパンで事を捉えてみるといい。 そして、そのスパンが長ければ長いほど安定は大きなものとなるだろう。 日々の生活の中何が起ころうとも、それに心を左右されなくなる。 そして次第に、あなたの本当の望み、魂の望みがその輪郭を露にしいくとこだろう。 魂からの感謝を。 |