京都三条ラジオカフェ物語
はじまりは、1999年の終わり頃。
「パブリック・アクセス」…市民が番組に参加したいという声が、国内外から沸きあがってきた。
ラジオの影響をうけて育った世代7~8人が、カフェで集まって交流・雑談していた。
KBS京都(民放)を退職したばかりの町田寿二さんも、その談論に加わった。
「既成の放送局は敷居が高い。自分たちの思いが伝わらない。それならいっそ、自分たちで作っちまおうか」
素人の集まりだったので、電波制度や放送法の勉強からスタート。他のコミュニティ放送局の見学もはじめた。
カフェに集まって相談を繰り返すこと、2年余り。
交流と勉強の集いはだんだんと人数がふえ、50人位のゆるやかな輪になった。
放送免許と資金(数千万かかるといわれた)が、2つの大きなハードルだった。
団体でないと免許が降りない。他のコミュニティ局はすべて株式会社だった。
「いろんな人が集まってやる団体」
「オープンな組織」
2002年秋、NPO団体として総務省に申請し、放送免許も総務省に届け出た。
同じ省内だがセクションが分かれていて、一向に返事がこない。「前例がない」といわれ、何度も掛け合いに行った。
資金は、町衆といわれる地元の有志が共同出資して、2300万が集まった。
その間も、どんな放送局にするかで議論が続いた。
「市民ひとりひとりが主人公」
「プロもはじめは素人だったんだから、勉強したらできるようになる」
「街角のカフェから放送できるようなもの」…イメージが徐々に出来上がっていった。
2003年3月31日、日本ではじめてNPO法人として放送免許を取得した。
JASRAC(日本音楽著作権協会)とも協定が成立し、コミュニティFMとしてスタートした。
市民がつくるはじめての番組。
放送料金は、3分間で1500円。これなら中学生・高校生の小遣いでも利用できる値段だ。
放送第1号は商店街有志による〈京都龍馬会〉で、「龍馬の今を語る」番組。5000円/月の放送料だった。
開局当初、40本の番組がたちまち出来上がった。
誰が聞くかわからないラジオ放送だが、潜在需要は思いのほかあった。
「市民それぞれが発信できる自由」という、手ごたえをかんじた。
番組の制作と放送業務は、「NPO京都コミュニティ放送」。
広告・営業サポートは、「京都ラジオカフェ株式会社」。
2つの団体が連携しながら、「京都三条ラジオカフェ」を運営している。
毎月一回、ラジオカフェでイベントを行い、スタジオを一般公開した。
使える電波が送信出力20Wと弱いので、インターネットでも同時に視聴できるようにした。
ボランティアのアナウンサーが、新聞社から送られてくるニュース原稿を、自分で手直ししながら放送用原稿をつくり、独自のニュース番組もつくった。
FM局を退職してアメリカに遊学、ラジオ・ジャーリズムの勉強をしてきた、時岡浩二さん(専任技術スタッフ)も加わった。
専従スタッフ2名のほか、アルバイト・ボランティアのスタッフで放送局を動かしている。
ラジオ(受信機)というものを、「見たことも、聞いたこともない!?」ような若い世代(大学生)から熟年世代まで、面白が って制作している。
僧侶がパーソナリティをする「京都三条ボンズカフェ」、看護師の「FM看護系ナイト2」、学生や留学生の制作番組、NPOなど市民グループの自主制作番組などのほか、1分間500円で市民が自由に発信できる「ワンコインメッセージ放送」もある。
いま毎月150本以上の番組を放送しているが、市民がここまで手作りできるようになるとは想像していなかった。開局5年で収支はトントン。放送内容のさらなる充実、音声の技術向上、安定経営をめざしている。
番組制作に何らかのかたちで関わった市民の数は、この5年の間に2000人以上。この市民参加の広がりが、コミュニティ放送をささえている。
現在、コミュニティ放送局は全国に200以上。NPOが運営しているものは、11局になった。
(NPO京都コミュニティ放送 理事・放送局長
町田寿二さんの談話より)
(7月19日、京都メディフェス・プレイベント
「市民メディアってなに?~誰もが発信者の時代へ」&交流会メモ)
●京都三条ラジオカフェ 公式サイト
http://radiocafe.jp/
●パブリック・アクセスとは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%96%E3%…B%E3%82%B9