おいらのフットサルチームの半数が木更津半数が横浜 なんか いんねんですかねー
来年のY150ベイサイド市民参加のイベントに出展したいと、暇を見つけては開港前後の横浜の歴史をひもといているところです。 調べている中で驚いたのが、ワタシの(心の)第二の故郷房総と横浜は、開港前から密接な交流をしていたということ。 房総(それも館山周辺)と横浜が?!?! 横浜の大部分は開港後もひなびた漁村にすぎませんでした。 もちろん、石造りの建物やガス灯がある、まるで外国のような景色となった横浜でしたが、沿岸部の多くは、古くから漁業がさかんで、ちいさな帆掛け船で沖に出ていき漁を営むという生活が続いていました。 大正時代にはいっても、底引き網漁が盛んで、カレイやイカ、アナゴや、浜辺のカニやシャコを獲り、海苔の養殖に精を出したそうです。 多くの漁師たちは船を駆って東京湾一帯を自由に行き来する中で、東京湾を挟んだ対岸にある館山や富津や木更津と活発に交流したといいます。 「嫁をもらうならば働き者の千葉の女を」といわれ、対岸の千葉から多くの女性がこの横浜に嫁いできたとか。 そして千葉との交流は、海岸が埋め立てられるまで続き、そのため根岸や本牧の風習は千葉と似通っている、とも言われています。 開港前から横浜と房総は密接な関係にあった。忘れられていたこの事実を、いま知って、房総との縁を開港150を機にみなさんに知って頂きたいと思ったのでした。 |