「はやぶさの大冒険」と内田樹「街場のメディア論」をほぼ同時に読了。 「はやぶさの大冒険」は、小型宇宙船探査機「はやぶさ」の打ち上げから地球帰還までの7年に渡る軌跡を描いたもので、日本の科学者の想像力と粘り強さがよくわかる内容。 「街場のメディア論」は、内田先生の枝葉末節を一気に払って幹を「がっし!」と掴むような相変わらずの論理展開が爽快そのもの。 なんで、この2冊を同時にブログに書こうと思ったかというと、内田先生がメディアというものの本質を語る上で用いていた「贈与と反対給付義務」という枠組みが、「はやぶさ」を地球に帰還させた日本の科学者達にも通じるなぁーと思ったからです。 「贈与と反対給付義務」については、内田先生のブログをご覧下さい。 http://blog.tatsuru.com/2009/10/22_1155.php はやぶさチームがなぜ数々の困難をくぐり抜け、見事ミッションコンプリートできたのかという「問い」に、内田先生の「贈与と反対給付義務」という変数を掛けた時に思ったこと。 それは、様々な困難にあった時に、はやぶさチームはそれを「害あるもの」ではなく「これは我々への贈り物ではないか?」と見なしたのではないかということでした。 そして、チームが一丸となってそれが「贈り物である」という証明をした。 それが「はやぶさ」帰還に繋がったのではないかと思ったのです。 未知なるものを解明するということを命題とする科学において、この考え方は想像以上に大事なことです。 というか、その考え方がないと科学というものがそもそも成り立たないのではないかと思います。 内田先生は、「なんだかわからないものを受け取った人が、またそれを別の人に渡し、どこかの時点で誰かがそれを「価値あるものだ」と思い、お返し(反対給付)の義務を感じた時点で贈与が成り立つ」と書きます。 そして「街場のメディア論」の中で 「どのような事態も、それを「贈り物」だと考える人間の前では脅威的なものにはなりえません。みずからを被贈与者であると思いなす人間の前では、どのような「わけのわからない状況」も、そこから最大限の「価値」を引き出そうとする人間的努力を起動することができるからです。」 と書かれています。 これは、私自身の過去の少ない経験の中からでも実感できる意見です。 (残念ながら、私自身の未熟によって「反対給付」できていないものも多くありますが・・・) 日本が失いつつあるのは、この「みずからを被贈与者であると思いなす人間」を生み出す土壌ではないか。 異なる二冊の本を見比べつつ、そんなことを思う土曜の午後でした。 |