昭和の頃、小林秀雄という文芸評論家がいた。 「無常ということ」に代表されるようにやたら難解な文章を書くのだが、 インテリ層(当時は自分を知識人と錯覚している人がたくさんいた)の ウケが良く、大学入試にもよく出題されたりした。 この小林秀雄、肩書きは文芸評論家だが 批評する対象は文芸作品にとどまらなかった。 クラシック音楽、古典、絵画、本居宣長という歴史上の人物など 多方面にわたる。 それにもかかわらず文芸評論家を名乗っていたのは、 対象のなかにテキストを見いだして、そのことについて論じていたからだ。 対象となるテキストと対峙する小林秀雄、 その完結した世界のなかですべては語られていた。 反対にクラシック音楽の中におけるモーツアルトの位置づけなど 彼にとってはどうでも良いことだった。 この小林秀雄と音楽雑誌「ロッキング・オン」 ならびに渋谷陽一初代編集長とをならべて論じることを思いついたのも 対象の中にテキストを見いだす、その共通性に気がついたからだ。 「或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、 このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである」 (小林秀雄「モオツァルト」) を、 「ある冬の夜、渋谷の公園通りをうろついていた時に、突然、 狂気の管楽器と『コンフュージョン・ウイル・ビー・マイ・エピタフ』の言葉が 頭の中で鳴り響いたのだ」 と 置き換えてみれば、 それはすなわち「ロッキング・オン」創刊時の 渋谷陽一のことになってしまうのだった。 実際、「ロッキング・オン」と言えば、 リスナーがロックのなかに見いだしたテクストについて論じる雑誌であって、 極論すればアーティスト本人が実際どう思っているかは 二の次だったようなところがあった。 当時アーティストの「架空インタビュー」が人気を博していたのも そのような事情があってのことだろう。 つまり、当時の編集部がキング・クリムゾンに見いだしていたテキストを リーダーのロバート・フリップの言葉として語らせていたわけだ。 これは小林秀雄の対象がロックになっただけのことであり、 手法としてはおなじことだ (橋本治は小林秀雄『本居宣長』をとりあげた文章のなかで 「本居宣長が本当はどのような人だったのかわからない、 わかるのは小林秀雄が規定した本居宣長だけだ」と言っている)。 このような背景からか、当時の「ロッキング・オン」は、 どちらかといえば勉強のできる、理屈っぽいロック少年に支持されていた (私の周囲に限定されるかもしれないが)。 こんなことを思い出したのは、数日前にたまたま病院の待合室で読んだ 「ロッキング・オン」の蔵出し記事で、 初期の編集スタッフがロバート・フリップ(本人)を当惑させている インタビューを読んだからだ。 くだんのスタッフはじぶんがクリムゾンのなかに見いだしたテキストを フリップ本人にぶつけていたわけだが、 根が素直でない(?)フリップがそれに同意するはずもなく、 インタビューは空回りしていた。 1980年代に入って編集長が交代し、 「ロッキング・オン」はアーティストの生の声を伝える ロック報道誌へと変身した。 これによりアーティストの声はリスナーに適確に伝わるようになったのだろう。 一方、ロックのなかに見いだされていたテキストはどこへ行ったのだろうか。 平成も四半世紀をすぎて、 世の中はもはや小林秀雄的なものを必要としなくなったとも言えるだろう。 かつてのアナログ・レコードはCDにかわり、 今ではいつでもどこでもダウンロードできる音楽配信となった。 紙の本もまた電子書籍に置き換わりつつある。 しかし平成の文芸評論は小林秀雄を乗り越えることができただろうか。 平成のロック評論は渋谷陽一を乗り越えることができただろうか。 いつでも手軽に手に入れて捨てられていく音楽情報が 増えただけのことではないのか。 今年、エリック・クラプトン、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、 ジェフ・ベック、ポール・マッカートニーと 「ロッキング・オン」創刊時のスターが続々と来日している。 彼らの音楽には今なお読み解かれるテキストがある。 だから多くのファンに支持されているのではないだろうか。 ふと、そんなことを考えた。 |