(「小林秀雄と渋谷陽一」 「ピンク・フロイドのカレンダー」の続きです) キング・クリムゾンの「コンフュージョン・ウイル・ビー・マイ・エピタフ」が 雑誌「ロッキング・オン」を生み出したことは 渋谷陽一社長が何回も語っているところだ。 ところが当のロバート・フリップは、作詞家ピート・シンフィールドの 貢献を認めていないようだ。 80年代の「ディシプリン」以降、 エイドブリアン・ブリューの書く、 文学性のまったく感じられない歌詞が キング・クリムゾンに採用され続けている。 「音楽は文学よりも優位である」 ロバート・フリップはそのことを証明したいのだろう。 ソロアルバム「ディスコトロニクス」で 肉体コンプレックスを露呈したロバート・フリップは、 エイドリアン・ブリューの助けを借りて (トーキング・ヘッズの手法まで借りて)、 「ディスコトロニクス」よりも洗練された 肉体派音楽「ディシプリン」をつくり、 文学性を排除した (「アイランド」で肉体派音楽をめざしながらも 野合に終わってしまっていたロバート・フリップにとっては 二度目の挑戦でもあった)。 そしてこのことは、 リスナー側からのキング・クリムゾンに対する 意味づけ(テキストの読み取り)の排除でもあった。 ロバート・フリップにとっては 永遠の今があるだけなのかもしれない。 今を生き続ける彼は過去を乗り越えようとする。 しかし現在の彼がつくりだしているものは、 その時々の記録ではあっても、 作品ではなくなってきている。 対照的に、70年代キング・クリムゾンの諸作品、 「リザード」や「ポセイドンの目覚め」までもが、 作り手であるロバート・フリップの手を離れて、 時代を超える作品としての姿を はっきりと見せはじめている。 小林秀雄は「無常という事」のなかで 「生きている人間などというものは、 どうも仕方のない代物だな。 何を考えているのやら、何を言い出すのやら、 仕手来すのやら」と言っている。 奴隷船のようなアメリカン・ツアーのなかで、 イアン・マクドナルドとマイケル・ジャイルズは恋に落ち、 ロバート・フリップはメル・コリンズらの ブルースいじめに遭い、 デビッド・クロスは体調を崩して グループを去った。 初期のライナーノートには キング・クリムゾンが印税10%という 当時では破格の契約をEGレコードと結んだことが 書かれていたが、 その蔭でツアーには ギャラがまったく支払われていなかった。 そのことを私が知ったのは 21世紀に入ってからのことだ。 「其処に行くと死んだ人間は どうしてああもはっきりとしているのだろう」 「動じない美しい姿しか現れぬ」 (小林秀雄)というが、 「クリムゾン・キングの宮殿」もまた、 どうしてああもはっきりと、 美しい姿をしているのだろう。 「思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが」 (小林秀雄)、 これは老人の懐古趣味というものではない。 21世紀も10年以上すぎて、 過去の名作が今の世にも訴える力を いよいよ強めているということだ。 歴史的な作品は、 私たちによけいなことを考えさせないからかもしれない。 久しぶりに「ロッキング・オン」を読みながら、 そんなことを考えた。 (了) |