ついに、サトシさんのところに女子大生のインターンを紹介してしまった(初の試み)ので、少しは役に立つ内容を書かねばと思い、「9条」の取り組み後に寄せられた明治学院大の3年生の感想文を載せます。(公表を了解した学生のもので、名前を外しました) 読んでいただければ、市民メディア的な取り組みが、どんな意味があるかを理解するのに、わかりやすいと思います。 (学生の取り組みについては、世界会議前後のブログをご覧ください) <その1>社会学部の女性です (以下、転載) 感想 私は初めてこのような趣旨のシンポジウムに参加した。(日本で開催されること自体が初めてなのかもしれないが。)テーマは違えど講演会や勉強会といった類のものには何度か参加したことはあるが、それらはすべて聴くに徹するものだった。開催者側に関わることや、撮影をするなど会をつくることに少しでも携わることは初めてだった。とにかく自分に大きく影響を与える一日となった。 最初感じたことのひとつとして、参加者の比率が年輩の方が多いということが挙げられる。これは意外でもあった。9条を守ろう!という主張は、左翼的というか前衛的というか、新しいムーヴメントなのだというイメージを勝手に抱いていたからだろう。 しかし意外に感じる根拠はないとすぐ思った。やはり戦争を実体験した人とそうでない人とでは、問題意識の点でも行動に移す動機の強さにおいても、大きく差があるということだろう。ならば、この先は戦争を経験していない世代の行動が重要になってくるということになる。 まさにその次世代を担う若者である私自身、正直言って憲法9条とか、平和を訴えよう!とか武器をなくそう!とか、戦争反対!とかを心の底から支持して、声を大にして自ら主張したりすることはしてこなかった。その理由のひとつとして、自分はとっても平和な環境で育ってきたことが挙げられる。命の危険にさらされるような環境で生活したことは一度もない。だから平和、平和!って訴えるほど、平和に餓えていない…とでもいうところか。 そしてもうひとつは「そんな簡単なものではないんじゃないか?」と漠然と感じていたからである。人が死ぬことは確実に悲しいこと。でも争いというものは、人類が誕生したときから常に隣にあった。(例えば、原始人の縄張り争いとか…)ひとに欲望がある限り、争いはそう簡単にはなくならないだろう。そして、赤ちゃんですら思いどおりにならないときにはこぶしを振り回したり駄々をこねるように、武力・暴力という手段が自分の欲を満たすための、欲を表現するための、最も短絡的な方法なのではないか、と。長い長い歴史をもつ“戦争”そう簡単になくならせることができるのだろうか? こんなことを思っていたため、ただ漠然と「戦争は良くないよなあ、そりゃ」くらいにしか思っていなかった自分を認めざるを得ない。戦争に対する明確でしっかりとした考えや主張を持っていなかった。だから、Stickamを使ってインタビューをした時にも何を訊こうか、何を訊くべきなのか、何を訊きたいのかすらわからなかった。先に述べたように、これが戦争を体験した人間とそうでない一般的人間の違いなのだろう。自分が後者であることをとても強く痛感した。そして自分の意識の低さと勉強不足を痛感した。 戦争を実際に体験したり目の当たりにし、罪もないのに被害を受けた人、大切な人を失った人、さらには実際に兵士として人を殺した人、軍部の上官として指揮した人 そういう人たちの話を聞けて本当によかった。そういう人たちが世界中から集まってきているのを見れてよかった。 そのおかげで、世界の平和への思いをびしびしと感じることができ、自分自身の戦争に対する考えが以前よりクリアになった。そして自らの意識の低さに気づけた。一種の 無知の知 みたいなこの気づきはとてもとても大きく、そういった意味でも、参加した意義がとてもあったと思う。 このような若者が日本にはきっとたくさんいるはず。戦争についてどう思うかはその人の自由で、戦争についてどうも思っていないことが実は一番あやういのではないかと思った。 まずは今まで深く考えもしなかった戦争について、9条について、思いを巡らせること。こういった波が世界で起こっているのを知ること。これが必要である。これらの手助けをするツールとしてのメディア、そしてこれからの私たちの発信していく活動にますます興味が湧いた。自らの足で出向き自らの目で見ることの重要性を確信することもできたし、本当に有意義な1日であった。 <以上です> その2は、後日。では。 |