行政が言う「市民」と、市民が言う「市民」は意味が違うんですよね。
簡単には定義できません。
また、サンタになる季節がやってきました。
夜中に忍び込む醍醐味は…、スリル満点!
http://www.alz.jp/221b/aozora/there_is_a_santa_claus.html (日本語訳) http://www.stormfax.com/virginia.htm (英語) なんどよんでも、素敵だと思う。 こんなことも語ることができるメディアだったはずなのに。 orz------。 「マス」メディアであれ、「市民」メディアであれ、そこで発信者が丸裸で問われるということ。 Francis Pharcellus Churchが、8歳の女の子に向けて書いたテキストは、それが掲載される場が手紙であれ、新聞であれ、ブログであれ、すばらしいのだとおもう。 器がなんであろうと、美しい花は美しい。 ビートルズが雑音だらけのラジオから流れても、美しいように。 書き手の出自がだれであれ、読み手は最終的にはそれを勘案しない。 出てきたプロダクトは、フラットな場所で、判断される。 これからますます。 そういうとき、「市民」というメタ情報による差別化はどれくらい有効なのか。 どこに「市民」は位置するのか。 なにを軸に「市民」「非市民」がありうるのか。 で、市民って、誰なのか。 批判されないレイヤーなのか? 批判されないメディアというのはありうるのか? 批判されないとしたら、いまのマスメディアとどこが異なってくるのか。 不勉強なのであります、何もかも。 ただ、そういうことをまっすぐに考えるフェイズにきてしまったと思う。 発信の武器が安価になったからこその、存在意義の問い直し。 しばし考える時間が必要。 |