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2008年03月21日(金) 
唐突ですが
http://sns.yokohama150.jp/community.php?bbs_id=334
こちらのプロジェクト
「地域SNSを活用した家庭教育支援に係る調査研究」に関心のある方、ご連絡ください。

家庭と教育が組み合わさって、文部科学省という行政機関から、あらかじめわくぐみが提示されていることに、かすかな違和感を感じないことはない。

SNSという、発信する人間はつながってしまうような仕組みの手前に、「●●のために」という旗がわかりやすく掲げられることに、違和感を感じる人がいるであろう、ということはココロの片隅に留めておきたいと思う。

それは総務省が御旗を振ることについても、ほんとうはそんなニオイはする。
ではなぜ、SNSに関わっているかといえば、そうした行政や国などの「思惑」を超えるつながりをも、生んでしまうような出会いがこのネットワーク生成の仕組みに備わっているのではないかと思うからだ。

わたくしが、ずっと、地域SNSのDBを誰が管理するのか?ということにこだわるのは、各種「錦の御旗」を掲げる人たちの思惑を超える動きがでてきたときに、参加者はどれだけ自由にものが言えるか?
そして管理者/運営者は、そのやり取りのデータを行政からある種の距離を持って(むしろ一種の対峙の場面も想定しつつ)守ることができるかということに関心があるからだ。

SNSやブログプロバイダーというのは、多くの人たちの記憶や思想を、言葉や映像としてためていく仕事をする。そういう仕事をする人や組織にとって、錦の御旗の下でプロジェクトをこなすしたたかさの一方、「有事」(笑)を想定した緊張感を意識することが「生命線」の一つだと思うから、だったりする。

話が思いっきりそれましたな。

冒頭の研究は、お題としては「家庭教育支援」。

この関連のお話、文科省的には平成13年から始まっているようだ。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shougai/…020701.htm

このPJに関してさまざまなネット上の文章を読みましたが、プロジェクトに直接、役立つとは思えないながらもとても共感したのが、以下。

http://www8.cao.go.jp/shoushi/kentoukai/k-1/s1-8momoi.html
これは、平成15年9月に始まった「少子化社会対策大綱検討会」の一委員である、桃井 真里子・自治医科大学小児科教授の意見。

この検討委は、少子化に対応するための「総合的かつ長期的な施策の大綱」を決めるための議論をするのが目的。いわゆるビジョンを作成するのがお仕事だ。

この桃井さんのテキストを読んでから、久しぶりに家族社会学やジェンダー、フェミニストセラピーのことなどを思い出した。

=======ここから引用===================

(1)子どもを持つことの価値感覚が負担感をしのぐことが必要である。

「価値」よりも、「負担感」が大の場合、人はその選択をしない。人は価値を感じられる、他人、社会が共通に価値を認めてくれることに、やりがいを見いだす。価値感覚がなくて、負担感覚が大きいのが育児であれば、選択しないのは当然である。
従来の政策は、負担の軽減である。負担をいかに軽減させても、本来、育児は最も負担感の大きな作業であり、苦労を強いる作業である。この逆転には、「価値感」の増大、「価値観」の醸成しか、ない。

日本社会は、「便利」を追求しすぎた。欧米社会での生活で日本との最大の差は、「不便さ」である。この「不便さ」を残している社会の価値観は、過度の便利さの追求よりも、別の事項を追求する社会精神である。効率だけを重視する社会の中で、最大の不効率行為が、育児であり、残された唯一の効率の悪い、負担感の大きな作業が育児であるなら、また、その大半を女性が負うのであれば、若い女性がそれを選択しないのは、当然の帰結である。

この解決には、負担感をしのぐ価値感覚を、社会が自らの価値とすること、それが、肌で感じられる社会であること、育児を女性だけに依存しない育児であること、が必要である
===============================
バッサリ、すっきり、という感じだ。(笑)
とくに
>効率だけを重視する社会の中で、最大の不効率行為
>が、育児であり、残された唯一の効率の悪い、負担
>感の大きな作業が育児であるなら、また、その大半を
>女性が負うのであれば、若い女性がそれを選択しない
>のは、当然の帰結

このあたりを読んでいて、思い浮かんだのが斉藤茂男さんのルポ「日本の幸福~妻たちの思秋期」であった。
http://search.newgenji.co.jp/sgenji/D1/?000100837873/

昭和58年の出版で、共同通信社配信記事として全国の地方紙に連載されて大変な反響を呼んだのであるが、わたしはこれを18歳のときに読んだ。
(斉藤茂男さんは、いろいろあっても、プロダクトの質としては自分にとってやっぱり原点なところがあるなあ・・)

このころの女性は、結婚や出産についての自己決定権が、弱い方も現在よりは多かったと思われる。
さまざまな選択をした結果(しなかった結果?)負担を強いられ孤独になり、アルコール依存症になっていく女性たちの声を丹念に取材した労作を、桃井さんの上記意見とともに思い返してみると、状況は変わっていない部分もあるのかなあ、と考え込んでみる。

ハハたる女性のさらされてきた社会の価値観の変遷と、自分も含めた今の女性の現実と、それを構成しつつ取り囲む「地域」の人びととしくみ。

ひさびさに、考えていて面白いかなあ。

閲覧数7,387 カテゴリNote コメント3 投稿日時2008/03/21 00:33
公開範囲外部公開
コメント(3)
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  • 2008/03/21 05:36
    たーなかさん
    私は20の時に読みました。
    わが亡き後に洪水よ来たれ、というフレーズを知ったのも、彼の著作のタイトルからでした。
    今日、斉藤茂男さんと貴男さんが別人だと分かり、少し安心(なぜ?)しました。
    次項有
  • 2008/03/21 05:42
    たーなかさん
    ↓「洪水は」でした。
    次項有
  • 2008/04/04 23:18
    鉛筆hopeさん
    >大変遅いレスです、たーなかさん


    わたしは斎藤茂男さんのルポで最初に読んだのは「父よ母よ」でした。わたくしのチチと斎藤さんが同僚でしたので「父よ母よ」の新聞連載コピーが家に置いてあり、それを読んだのが最初です。

    斎藤さんは、いままで新聞紙上で省みられることなどなく、取るに足らないとおもわれていたことを堂々とテーマにすえて、ふだん黙して声を発しない人、発していても社会がその声を聞こうともしない人に焦点をあてて、丹念にかすかな声を増幅し、「これでいいの?こんな社会でいいの?」という問いかけにまで高めていく。

    という意味で、もう一人の斉藤貴男さんもそんなところがありますよね。
    間違えるのも無理はないかも、です。

    次項有
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