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2010年05月15日(土) 
「大使閣下の料理人」という漫画を知っていますか?

各国要人の思惑渦巻く食卓外交の場で活躍する公邸料理人・大沢公が、「味の外交官」として料理で世界の様々な難しい問題に立ち向かうお話です。

その中に「創造性」に関するお話がありました。

大沢公は、米国&英国と中東政策に関して軋轢を起こしているフランスから、関係修復を目的としたエリゼ宮での設宴を依頼されます。
しかし、伝統を重んじるフランスにおいてエリゼ宮の厨房を外国人に委ねるなどというのは例外中の例外。
エリゼ宮の料理人達は、自分達の「料理長」として伝統ある厨房を委ねるに値するかどうかを試すために、公に料理を作れと要求します。

それに応えるために最先端の技術を用いて作った公の料理は、見事にエリゼ宮の料理人達に否定されてしまいます。
そして料理長は公に対して、あるビストロに行けばなぜ自分が公の料理にダメだしをしたのかわかるだろうと言うのでした。

指定された場所は、おばあさんが一人でやっている小さなお店で、メニューは素朴なビストロ料理のみ。
しかし、その料理を一口食べた公は、そのあまりの美味しさに衝撃を受ける。

公はおばあさんに聞きます。
「なにか特別な素材を使っているのか?」

おばあさんは否定した上で
「80年間同じ生産者から仕入れた食材で、同じメニューを作りつづけている。」
と答えます。

なぜそんな単調なことを続けていられるのか?という問いに対して、おばあさんは言います。
「単調などと考えたことは一度もない。人間が一人一人みんな違うように、食材だって同じものはひとつもなく、それぞれ味が薄かったり柔らかかったりひとつひとつが全て違う。毎日新しい食材との出会いがあり、そこからできる料理も同じものはひとつもない。みんな新しい新鮮な一皿なのだ。」

創造性とは斬新さだけのことではない。
食材との出会いに対する新鮮な感動と、その味を持てる技術を使って最大限まで引き出そうとすることこそが「創造性」である。
そのことに気がついた公は、エリゼ宮の料理人達の信頼を勝ち取り、設宴を成功に導く・・・という内容です。

大量消費型の経済発展は、古いものを捨てて、新しいものへと取り替えることで成り立ちますが、そのパラダイムシフトの中で「ある物質は常に固定」なのだという勘違いを植え付けられた気がしています。

そしてその勘違いにより、手の届くところにある「素材の良さ」に気がつくことも、その味を引き出すための技術を身につけることも「古臭い」の一言で片付けられていたのではないかと思うのです。

「青い鳥」の話のように幸せも発展も手の届かない遠いところではなく、ほんの近くにあって気がついていないだけ・・・。

Y150ヒルサイドの創発プロジェクトや、イマジン・ヨコハマは、そんな近くの「青い鳥」を探そうとする「ココロミ」ではなかったか。

読みながらそんな風に思いました。

閲覧数3,173 カテゴリ日記 コメント5 投稿日時2010/05/15 03:22
公開範囲外部公開
コメント(5)
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  • 2010/05/15 22:44
    hopeさん
    > sa-yaさん

    毎日忙しい中で料理をしていると、素材一つ一つがいのちであること、そういうものと出会っていること、を忘れてしまいます。

    でも、sa-yaさんのブログや紹介していただいた文章を読んで、改めてくっきりとそういうことなんだ、と思い出しました。
    ありがとうございます!
    次項有
  • 2010/05/15 19:55
    鉛筆sa-yaさん
    > hopeさん

    「あい似たり」と「同じからず」と使い分けをしているところを見ると、この言葉を書いた人はその辺りを理解していたかも?

    「諸行無常」と似ていますが、こちらは人の世限定ではなく全ての事柄のはかなさを表した言葉ですね。

    世の中の一切のものは、刹那であっても同一性を保持することはできない。
    生死は生死そのものが苦なのではなく、生死がある存在であることに背を向けて、それがないかのように考えることから「苦」が生まれるのである。

    仏教の言葉は深いです。

    料理の「素材」は、ニンジンであれジャガイモであれ、ひとつも同じものは無い。
    その「違う素材」から「常に美味しい料理を作る」という行為は、相手に「美味しいものを食べさせてあげたい」という想いだけでなく、素材に対して「美味しくいただく」という行為を持って感謝を示すということではないのか。
    そして、そのためには収穫の時期、保存法、調理法など様々な技術が必要とされ、それが「文化」という形で受け継がれてきたのではないか。
    それは建築や芸術も同じことで、確かにそのためには相当に高い「感度」を要求されたであろうと想像できます。

    鎌倉のような古都で感じる不思議な感覚は、そうした「感度」への畏怖のようなものかもしれない・・・とちょっと思いました。
    次項有
  • 2010/05/15 19:04
    鉛筆sa-yaさん
    > しがちゃんさん

    あはは。ありがとうございます。
    なんだかよくわからないけど何かを感じて下さったというのは、個人的にはとても嬉しいことです。
    人であれモノであれ「出会い」はいつでもまず「心」で感じたいと私も思っていますから。
    次項有
  • 2010/05/15 14:06
    hopeさん
    「年々歳々花あい似たり、歳々年々人同じからず」という言葉があります。
    これは「毎年毎年花は同じように咲くが、人の世は年とともに変わり、生まれる者があれば死ぬ者があって、同じ顔ぶれは続かない。自然は変わらなくても、世間は変化すること、人の世のはかなさをいう」などとウェブを検索すると意味が解説されています。
    わたしも「そうだなー」と漫然と思っていた時期がありました。

    でもあるとき、社会学者の見田宗介さんの文章に「これは数日で散る花に対する感性が足りない見え方」というような解釈を目にしました。
    花は同じように見えるけれども、本当は一つ一つが違う個体であり、それこそ多様性が咲いている。けれども、人間は自分を中心にみるから、花の多様性に気づかず、毎年「同じ花」が咲いているように感じてしまう。
    本当は、花のほうが短い命であるのに。(例外は桜でしょうか?)

    ブログを拝見して、そうした出会いへの「感度」について考えました。
    次項有
  • 2010/05/15 13:19
    すごく深いブログで思わずコメントしちゃいます。

    とはいっても何を書いてよいのやら、わかんないですが・・おっしゃるとおりだと思いました!
    sa-yaさんのおっしゃる「青い鳥」は、結構近くに隠されたり、気づかなかったりするだけな気がします。
    次項有
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