日経ビジネスオンライン 「劇場版 交響詩篇エウレカセブン」京田知己監督のインタビュー記事。 http://cmad.nikkeibp.co.jp/?4_64783_417132_125 ![]() その中で監督が 「作品作りのキッカケというのは、多くの日本人にとっては、先人たちが作り上げた作品を見た僕らが、それによって得た快楽・感動に影響を受けるというものがあると思うんです。何か伝えなければならないという驚異的な体験・事件にでも遭っていない限りは、そうそうはない。それは僕自身そうです。 結局のところ普通の日本人にとって、その蓄積された言語的情報の差異はあるにしても、影響、つまり「コピー」もしくは「コピーの変種」の積み重ねでしか作品は作れないのではないかと思ったんですね。」 というジレンマを乗り越える方法として 「だから、「情報」を意識するのを止めた。」 と語っている。 世界中誰もが認める情報化社会に「情報」を意識しない。 ある意味衝撃的にも思えるけど、よくよく考えれば確かにそのとおりだ。 「情報」は、テキストであれ、音声であれ、映像であれ、絵画であれ、「入力データ」に過ぎない。 大事なのは入力データを「私」という「機能を持った身体」を使ってどう処理し、行動という「出力」へと繋げていくか。 そして、その出力が別の出力とぶつかり、新たな「入力データ」となる。 そういうことなんだ。 子育てとは、まさにこの「機能」のベースとなる部分を育てることに他ならないわけですが、大人が「出力」までコントロールしようとしちゃうから妙なことになるんではないかと思いますね。 監督は、「大きな物語の喪失」を「知らんがな、そんなの!」で飛び越えろ、とも言っている。 「大きな物語」や「神話」なんか存在しない。 そんな前提で、親は子供にとって「意識させないような「情報」」にならないといけない。 そして、道徳に背く部分以外で子供の「出力」をコントロールしてはいけない。 そんなことを改めて思いました。 エウレカセブンからずいぶんすっ飛んだなーと、我ながら思いますが・・・(^^; |