昨夜、環境団体のミーティング後の食事会で 「がくさんは、なんでそんなに京都にこだわっているの?」と尋ねられたので、 あらためて考えてみました。 わたし(がく)は、地球環境問題以前にも、会社の組合活動、合唱団のサークル活動、海外支援NGOでの ボランティア活動を行ってきました。 しかし大学院のインターン研修としてはじめて参加した京都のNGO環境市民でのボランティア・ミーティングは、 ほかのどの活動での会議とも違っていました。 ファシリテーター(司会)と議事録作成は毎回持ち回りで、一人に負担がかからないように配慮されています。 発言はかならず保障されていて、黙っていると「がくさんはどうですか」とファシリテーターから水を向けられます。 だれかがつくったたたき台を元に話すのではなく、企画の最初から全員でアイデアを出していきます。 議論が白熱してケンカになることはまずなく、意見が分かれたときはファシリテータが他の参加者に水を向けて、 対立している意見を別の角度から見ようとします。 このような議論の仕方は時間がかかります。 そのかわり「その活動はAさんが言い出したことだから」というサボタージュを許しません。 というか、生まれようがないのです。 みんなで出した意見が少しずつ反映されているので、参加者全員に責任があるというわけです。 「このような議論の仕方が存在するのか」、わたしは本当に驚きました。 組合活動も、合唱サークルも、海外NGOも、リーダーもしくは担当者の出す原案をもとに話をする、 会社の会議と似たようなものだったからです。 こうした会議の仕方は、環境市民に限らず、 気候ネットワークやエコテックと共同運営していた「自然エネルギー学校・京都」でも、 東本願寺と複数の環境NGOが参加している「東本願寺と環境を考える市民プロジェクト」の会議でも、 行われていました。 まじめにがんばればがんばるほど一部の熱心な人に負担がかかり、一方ではミーティングの参加者が減っていくばかりの悪循環に陥っている。このような体験は合唱団のサークル活動をしていたときにありました。 似たような経験をされている方もおおいのではないでしょうか。 大学院で研究した墨田区の雨水防災まちづくりは 「路地尊(ろじそん)」という雨水利用施設を誕生させたものの、 「住民参加でつくられた公園は住民が自主的に維持管理する」という教科書見解を完全に覆すかたちになっていました。 原因は定かではありませんが、 本来は中立であるはずのコーディネーター(コンサル会社)を行政がねじ曲げて住民の意見をとり上げなかったことと、 住民の間でも一部の声の大きな人の意見に引きずられていったからではないか、 と見ています。 このようなことから、会議のあり方には強いこだわりを持っています。 足元から温暖化を考えるネットえどがわで、今年の初めに 廣水乃生さんを講師にワークショップの講習会を開いたのもこのためです。 うちのマンションでも一部の声の大きな人が管理組合総会で延々と発言を続けて 建設的な議論をつぶすなど、江戸川区は住民同士の話が全然なっていないところなのです。 「京都へのこだわり」は、ほかにも理由がありますが、また機会があればお話ししたいと思います。 |