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2015年07月09日(木) 
父、昌之が7月2日未明、老衰のため浄土へ旅立ちました。


父、昌之は昭和5年2月3日、福岡県に
祖父義之、祖母ミツの長男として
6人兄弟の5番目として、生まれました。
(このとき義之40歳)

祖父義之は世界恐慌の際に台湾で失業
九州に戻り、親戚と商売を始めるも失敗。

父が生まれた頃は「赤貧洗うがごとし」でしたが
そんななかでも父はほがらかに育ったと聞いています。

旧制小倉中学から海軍兵学校佐世保分校に進学するも
同年8月に終戦。
わずか4か月間半の兵学校生活でしたが、
このとき父は生涯の友を何人もうることができました。

私も中学の頃、「至誠にもとる、なかりしか」という「海軍兵学校の五省」を
父から暗唱するように命じられましたが
不肖の息子は、一つしか覚えられませんでした。

父は、戻った小倉中学から旧制明治専門学校(現在の九州工業大学)に進学
卒業研究は、今でいう電子レンジだったようです。

当時はまだ戦後の不況の中で
父は、弟を大学に通わせるために
土方仕事もしたと、聞いています。

高度成長が始まろうかという頃
旧富士交易に職を得て
旧八幡製鉄の営業担当となりました。

九州の田舎から、いきなり東京に出てきて
かなり苦労したようです。

そんな中で、九州が縁で、八幡製鉄の亀井さんが親代わりとなり
下宿をさせてもらいながら
一人前の営業マンに育てていただきました。

その後も亀井家とは親戚同様のお付き合いをさせていただいています。

昭和33年、海兵時代の友人の実家の紹介で、母テツ子と結婚。
私をはじめとする3人の子供に恵まれました。

高度成長が本格化しようとする昭和39年、
証券不況で山陽特殊製鋼が倒産。
あおりを受けて、旧富士交易も倒産してしまいます。

そんな中で、父は富士電機、東京貿易の支援を受けて
現在の富士交易を再建。

浜名さんを社長に迎えて第一営業部長として
のちに社長として、
日本の産業界を支えてまいりました。

父の仕事にまつわるエピソード:
昭和33年頃、八幡製鉄所が当時の先端技術、転炉を導入。
その操業実験が行われました。

本来ならば、営業担当者として
実験に最後まで立ち会わなければならない父でしたが、
所用のため、途中で現場を離れ
ロッカーで着替えをしているときに
ものすごい轟音がとどろきました。
転炉が爆発したのです。

父、昌之と亀井さんとをつないだ恩人も亡くなる大事故でしたが
父は事なきを得ました。
かように父は運の強い人でもありました。

引退後は
囲碁、俳句、バードウォッチング、中国語で漢詩を読むなど趣味の世界に生き、
また、旧制中学や海兵の仲間とお酒を飲むことを楽しみとしていました。

8年前に肝臓がんの摘出手術
6年前に心臓のバイパス手術
5年前に心臓ペースメーカー手術と
大病を乗り越えてきた父でしたが

今年の春に軽い肺炎を患ってからは
坂を転がり落ちるように老衰が進み
7月2日未明
眠っている間に、浄土へと旅立ちました。

挫折を幾たびも繰り返しながら
それを乗り越えた
父、昌之は、家族のため、社会のために
働き続けました。

私たち家族には優しく、ときには厳しい父でした。
私たち家族もまた、社会のため、家族のために働き続ける所存です。
今後とも、よろしくご指導・ご鞭撻のほど
よろしくお願いします。

閲覧数1,101 カテゴリ日記 投稿日時2015/07/09 13:00
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