書き込み数は5件です。 | ◀▶ |
明治45(1912)年、日本から約3千本の桜がアメリカに贈られ、ポトマック河畔に植樹された。 それがポトマック河畔の桜並木で、毎年春のシーズンには「桜まつり」が開催され、全米から観光客が訪れるほどの名所になっている。 桜の植樹に尽力したのは、アメリカ人紀行作家のエリザ・R・シドモアさん。彼女は明治時代に何度も日本を訪れ、向島で見た桜並木に魅せられたことから、アメリカ大統領夫人に植樹を勧めたのである。 大正13(1924)年、アメリカ議会で「排日移民制限法案」が通過したため親日家であった彼女はスイスに亡命。そのまま帰国することもな … [続きを読む] |
隴西の李徴は博學才穎天宝の末年若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介自ら恃むところ頗る厚く、賎吏に甘んずるを潔しとしなかった。 山月記より 昭和五十年十二月四日 中島敦文学碑を建てる会建之 中島敦について 中島敦は明治四十二(一九〇九)年東京市四谷区箪笥町に父田人、母千代の長男として生れたが、故あって幼時は埼玉県久喜に漢学塾をいとなむ祖父中島撫山夫妻に育てられた。 敦は漢文の教師であった父の転任に伴い各地を転々とし大正十五(一九二六)年京城中学四年終了にて第一高等学 … [続きを読む] |
地蔵坂の由来となった濡れ地蔵が再興されて、2代目が坂上に安置されたのは昭和54年のことだった。 その後、設置場所をめぐっていろいろなやり取りがあり、平成13年、再び移転することになった。 今回は一気に坂を下って、亀の橋際に移ってきた。 今までの場所と比べて人目につく良い所だ。 その際、坂の中腹にあった満願地蔵もこちらへ移転したらしい。 さて、地蔵再興記念で発行した『お地蔵さま昔・むかし』を読んでいたら、こんなエッセイが掲載されていた。 タイトルは「鬼と鉄砲」。筆者は河西春海。どこかで聞いた名前だ … [続きを読む] |
昭和54年11月、地蔵坂の濡れ地蔵再建を記念して『お地蔵さま昔・むかし』という小冊子が発行された。発行部数が限定500部と非常に少なかったのは、おそらく町内の方々に配るために作ったからだろうと思う。 その1冊を図書館で見つけた。 そこにお地蔵さま由来の記事が掲載されていたのでご紹介しよう。 タイトルは「また聞き噺 濡れ地蔵由来」。 筆者は上保嘉保さん。 港崎遊郭の「大まがき」のお職女郎が弁天鼻の断崖から身を投げたニュースは、野毛村から石川村に住む住人の間にたちまちに … [続きを読む] |
中村川に架かる亀の橋から上り始めて山手本通りに至る地蔵坂。 最後は急峻なうえにカーブがきつく、昔はかなりの苦労を強いられた難所だったという。だから荷車や人力車を押す押し屋なんていう稼業もあったそうだ。 ここは今、坂を上り詰めたところに信号があり、運が悪いと急坂の途中で赤信号となったりして、再発進する際に昔と違った苦労がある、現代でも難所といわれる場所だ。 そんな地蔵坂というネーミングの由来となったのは、坂の途中にあったお地蔵様である。 ▲大正12年頃の地蔵坂界隈 当初はこの … [続きを読む] |
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