14日まで BankARTStudio NYK(横浜市中区海岸通)で行われていた「原口典之展~社会と物質」の最終日に行ってきた。 目的的に訪れたわけではない不遜な客として。 不遜な客ながらも、原口典之というひとが生み出してきた「軌跡」との邂逅を通して感じたことをここに書き残しておきたい。 何の予備知識もなく、がらんとした倉庫空間に置かれた作品群と対峙する。 見る/見られるという言葉では語れない圧倒的な存在感が確かにある。 しかしながら、代表作の「スカイホーク」「油のプール」光ケーブルのカバーを用いた巨大なゴム管(10トン)を手作業で刻んだ「ゴムの彫刻」などを、順々に見てくると「放置され、朽ち果てることもできず、忘れ去られるモノたちの哀しみ」が運河べりの倉庫いっぱいに、満ちているような感覚にとらわれる。 自然の循環のなかで、その流れを受け入れて生きていくしかなかった人間は、この300年にわたり、自然を支配し、略奪し、化石燃料を燃やし、大量にモノをつくり、消費し、そして廃棄するサイクルのなかで「豊か」になった。 時にはそのサイクルをより強固なものにするために、人のいのちを犠牲にしながら。 原口氏の作品は、そうしたわたしたちの長い長い「略奪の時代」の「墓標」のように思える。 地球上で、そのままでは分解されることのきわめて困難な物質群。 それらを生み出して豊かになった人間。 半永久的にそこにそのままあり続けるしかないモノたちが、静かに静かに「どこへいけばいいのだ」と私に問う。 過去の作品群の展示が主であった今回の企画を見て、私は「原口氏が”原子力発電所”を素材にしたら、どのような作品をつくるだろうか?」という問いを得た。 「安全である」といいながら、地下300メートルに「地層処分」されるガラス固化体を前にしたら、彼はどんな手法で、その哀しみを引き出すのだろうか? また、「人道的兵器」とされる「クラスター爆弾」の「人道性」を彼ならどう提示するだろう? 「どこにもいくことのできないものたち」を生み出した人間の罪を、静謐のうちにも鮮やかに突きつける原口氏の作品群。 それらを目撃したわたしは、何をすればよいのか/どこからはじめればいいのか、途方に暮れる「場所」に立っていることに気づくのだ。 |