0024さん
コメントありがとうございます。
高校の授業でいろいろやりましたが、大人になっても残る作品というのも少ないです。
中島敦さんを研究している方々に、敦さんのお話を聞きましたが「わが西遊記」というのもとても面白いらしいです。
山月記とことなり、かなりユーモラスかつ哲学的ということで、私も早速読むつもりです。
野村萬斎さんが横浜能楽堂で、この秋朗読もするらしいので、楽しみです。
高校(母校)の前の坂(汐汲坂)に記念碑がある作家・中島敦。 高校のとき山月記を読み、きりりとした文体に惹かれました。 ことし生誕100周年。 近代文学館にて、展示もあるそうです。 http://www.kanabun.or.jp/te0520.html 山月記は青空文庫で読めます。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/624_14544.html ================================================== 何故(なぜ)こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依(よ)れば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、己(おれ)は努めて人との交(まじわり)を避けた。人々は己を倨傲(きょごう)だ、尊大だといった。実は、それが殆(ほとん)ど羞恥心(しゅうちしん)に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論(もちろん)、曾ての郷党(きょうとう)の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云(い)わない。しかし、それは臆病(おくびょう)な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨(せっさたくま)に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍(ご)することも潔(いさぎよ)しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為(せい)である。己(おのれ)の珠(たま)に非(あら)ざることを惧(おそ)れるが故(ゆえ)に、敢(あえ)て刻苦して磨(みが)こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々(ろくろく)として瓦(かわら)に伍することも出来なかった。己(おれ)は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶(ふんもん)と慙恚(ざんい)とによって益々(ますます)己(おのれ)の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己(おれ)の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己の有(も)っていた僅(わず)かばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも為(な)さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄(ろう)しながら、事実は、才能の不足を暴露(ばくろ)するかも知れないとの卑怯(ひきょう)な危惧(きぐ)と、刻苦を厭(いと)う怠惰とが己の凡(すべ)てだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸(ようや)くそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を灼(や)かれるような悔を感じる。 ============================================================ 自分にも思い当たる節がかなりあるわけです。 勝負に負けるのがこわくて、最初から勝負しないとか。 自分のなかの虎。 それはどんな姿なんだろうと、久方ぶりにこの短編小説を読んで思いをめぐらし、頑なさが変わらずにいることに気づいて唖然としています・・・・。 追記)神奈川近代文学館のドメインって・・・。カナブンなんだ。決めた人にお会いしたいなあ。 |