哲学者鷲田清一著「京都の平熱」によると、京都人は「おうどん」が大好物で、それも讃岐うどんのように「腰」の強いものではなく、「舌でかんたんに切れるようなふにゃふにゃで、かつ「いきの構造」の九鬼周造のいう平行線の「いき」のごとく、「うどんは汁や具の中に混じっても、どこまでも(汁と染まらずに)うどんそのものとして味わわれるもの」がよいそうで、なにやらわかりそうでわからない京都の「おうどん」を近いうちに味わいにゆきたいと思っている。 しかしそれにしても、讃岐うどんというと「腰」うんぬんをみなさんおっしゃるけれども、讃岐では「腰」よりもつるっと口や喉を通る柔らかい弾力のある感じやだしの旨みや葱や生姜を軽くのせたりやのほうにこだわっていた様な気がする。あの伝説の宇高連絡船のうどんにしても、そのあたりがなんとも「完璧」で、私たちの心に残っているのかなと思ったりする。なにやら「固い」だけのうどんの「腰」の話は、その反動で、「舌でかんたんに切れるようなふにゃふにゃで」いいという鷲田先生のいう「おうどん」のほうがイイということになるかも知れない、てなことを考えているうちに「懐かしい」連絡船の画像を見つけた。潮風と熱い湯気を頬に感じながら腹に流し込んだ、「味」が蘇る。 http://www.youtube.com/watch?v=zWgRuScaRoQ |