フェミニストでもなく
「現実主義者」だなと自分の事が思われた
一文です。
昔、よく仕事もしたけれどよく酒も飲んで、酒場で長い時間を過ごしていた頃、その酒場の女主人が、自分がホレタ男が結局自分にナビイテくれない、という愚痴話をきいた。その話に対して、少し揶揄を込めて「ヒトは所詮好きな人の背中を見て生きているからねぇ」と、相手の気持ちも考えずに軽く言い流したところが、その女主人、イタクその言葉が気に入ったと見えて、その後何度か逢うたびに私にその言葉を「投げて」は自分にも言い聞かせるように、つぶやいていた。あれから、その女主人がホレタ男と一緒になったということは聞いてはいないけれども、かつて見せていた「絶望的な」表情が薄れていたようには思った。そして最近川端康成の「雪国」を読み直していると、主人公の島村と駒子の気持ちのすれ違いについて、「駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じてゐそうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊に似た音を、島村は自分の胸の底に雪が降りつむやうに聞いた。」と川端が書いたところがあって、男の方からの「応え」かと思ったけれども、むろん、これは男と女が入れ替わってもよくて、つまりは男も女も互いの気持ちが「ピタリ」とあうことが一瞬はあってもあり続けることはなかなか「難しい」ことを、ヒトの関係の「浅い」理解か「宿命」か、どうにでも理解できて、その解らない「余韻」が悪くないものだと思ったりする。いわゆるフェミニストには叱られるかしら...
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