神戸⇒小田原(日帰り)⇒伊豆
やや旅続き。
久しく、本気でアウトプットをしていないものが、身体にたまっていた。
なので
少々ヨコハマから離れ、沈滞してみた。
ネットのほとんどつながらない場所で3日。こんなのって、考えてみると久しぶり。
楽しく、刺激的だけどどこか煩雑な日常から少し離れる。
煩雑な生活、について時々思い出す一節。
「私は簡易な生活を望み、やどかりのように何でもなく運んでいける殻の中に住みたい。しかし私にはできないことで、私の生活は簡易であることに向いていない」
「なぜなら、今日のアメリカでの生活は段々範囲が広くなっていく接触と伝達を基礎に出来上がっていて、それは家族生活だけでなしに、新聞や、雑誌や、ラジオの番組や、政治運動や、慈善団体の呼びかけなどという社会的な、また文化的な機関を通して市民に対してなされる各種の共同生活上の、それからまた国家的な、そしてまた国際的な要求を意味しているからである。
私はそのことを考えただけでも眩暈(めまい)がする。私たち、アメリカの女はなんという芸当をやってその日その日を過ごしていることだろう。
(中略)
これは、少しも簡易な生活ではなくて、その反対の、私たちよりも賢明な人たちが戒めている煩雑な生活である。
それは私たちを統一にではなくて分裂に導き、恩寵を授ける代りに私たちの魂を死なせる」
「プロティノスは既に三世紀に煩雑な生活をすることの危険を説いている。
しかしながら、これは殊に、また本質的に女の問題であって、それは分散、あるいは気が散るということがいままでも、そしておそらくこれからも女の生活から切り離せないものだからである」
アン・モロー・リンドバーグの「海からの贈り物」の「ほら貝」という章の一節。
彼女はこの後の文章で
「女で聖者であった人がなぜ結婚しなかったか」という答えとして「気が散るということを避けるためだった」と述べている。
(芸術家も思索家も同様とのこと…)
お。忘れずに書き添えると、さらにこの煩雑な生活をすることの危険性には「アメリカの男も直面している」と彼女は抜かりなく書いている。
自分自身と調和がとれた状態を彼女は「恩寵(おんちょう)とともにある状態」としている。
この状態、もっと彼女はブレイクダウンしているが
それは「義務や仕事に私の最善を尽くすために、ものをはっきり見て、邪念に悩まされず、わたしの生活の中心に、或るしっかりした軸があること」っつーことだ。
忙しく、刺激的な毎日を送っていると、刺激を受けることばかりに慣れていって、自分自身の頭で考えていないのに、考えているような気になる。
自分のことばに咀嚼しないまま、からだをとおりぬけていないままに情報が蓄積していく。
すると消化不良な気持ち悪さがよどんでいる。
それが私にとっての煩雑で、分裂した状態。
で、最後に必ずゆれ戻しのように、一人きりになりたくなる。
常時ONLINEで、考え続ける身体的な感覚がやっぱり私にはなく、なじまないのだろう。
でも「それもまたいいか」と思っている自分がいる。
自分自身と調和しつつ、考えていく作法というのは、人それぞれで、わたしにはそのやり方が大切だからなー。
この3日間、台風のおかげで引きこもれた。
満足はいかぬが、すこし出すものは出した。
でもまだまだ核心ではない。
なにか出し切っていない気持ち悪さが残っている。
コレはなぜかが課題。
リンドバーグさんのいう、簡素な生活はなかなかできぬ。
日々の生活でなかなか一人きりになれない。
平日午前のファミレスのテーブルで我慢しよう。