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2007年12月22日(土) 
もう時間が経ってしまいましたが、12月14日にジャック&ベティで行われた「黄金町プロジェクト」の解散説明会に行ってきました。

(以下は、わたくし・hopeの超個人的感想であって、その日のプロジェクトメンバーのかたたちの言動とはまったく、一切関係ないことですのでご意見などがあればコメント欄にどうぞ)

始まりから終わりまで、すべての経過は報道ベースでしか知り得なかった「黄金町プロジェクト」の活動ですが、わたしはとってもいいなあ、と思っていました。

(伊勢佐木署を受け持ってサツ周りしていたので、チョンの間には摘発時におまわりさんとご一緒させていただいたこともあるなど、ガード下で売春がなされていた時期を知らないわけではありません、というか毎晩のようにあの周辺には出没していました・・・)

黄金町プロジェクトをいやだなあ、と思った人もいるかもしれませんね、もちろん。

でも、いいなあ、と思うひともいた、そのことを「いやだなあ」と思った人たちにも考えてもらいたいです。

わたしも「いやだなあ」と思う人の声も知りたいです。

クリエイティブシティには寛容、が最も大切ですから。
彼らの「志」の部分をきちんと建設的に、前向きに活用できないのでは、クリエイティブシティの看板が悲しいですから。

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黄金町プロジェクトはまったく別のお話を少し。

まちづくりのプロジェクトを考えるときに、いつも疑問があるのは、大学教授やコンサルがつねにあらかじめ準備されていて、そこに市民がのっかる、という構図です。

まあ、自治体としてみれば安心なのでしょうね。


某地方にいたとき、さまざまなまちづくりのプロのかたたち(大学教授や都市プランナーetc)と議論する機会がたびたびありました。
いつもかみ合わなかったのは、そのかたたちが常に「先生」になってしまっていることでした。

もう少しわかりやすくいうと「意見を言えないある権威」のような感じといえばいいでしょうか。
わたしは、実力がわからないうちから、先験的にそういうひとたちを「せんせい」と呼ぶのがとてもいやで、(当たり前ですけど)●●さん、と呼んではいやな顔をされていました。(^^)!
それはまだ小さいことでどうでもいいのですが、困ったのは、そうした方たちは、自分のまちづくり理論を現実にあてはめようとしたり、学生たちにフィールドワークさせたりする時間が、多くの市民からまちについての意見を聴く作業より優先しているようにみえたことです。

おおむね、商店街会長とか自治会長とかその周辺しか意見を聞いていませんでしたね。
で、プロジェクトを組み立てていく。で、かなりずれていく。

しかたないのでしょうか。
まちの住民にとっては、そのセンセイがどこから、なぜこのまちにきたのかが本当はわからない。
一体、このまちが好きなのか嫌いなのかさえ、知らない。

まして入札やプロポーザルに通ってそのプロジェクトをまかされたことなど、住民の側は良く知らない。
(これからは学習する必要がありますけれど)

その先生、である必然性について住民は、蚊帳の外でした。

そのセンセイを選ぶ段階で、まちの人間が関われるのならともかく、そんな仕組みにはなっていないわけです。
いつの間にか、××プロジェクトが始まっている。
税金がついて、いくつかのケースが進んでいくわけですけど、それがポイントをはずしている。
でも、そのセンセイの実績になっていく。
で、センセイは時期が過ぎると去っていく。
で、プロジェクトが終わったあと、まちの人間はそのセンセイを=プロジェクトを=評価することもできない。


わたしがまちづくりについてどっぷり情報を集めていた12、3年前とは異なり、いまは、住民がもっと主体的になって、プロを「使う」(←あえてこういう言い方します)ことができる、異なる手法が編み出されているのでしょうか。
ICTがなかった時代とある時代、まちづくりのプロセス、その手法も変わってくるはずです。
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もいちど、黄金町プロジェクト。

黄金町プロジェクトの場合、何の権威もなく、徒手空拳の3人が身を呈してまちをなんとかしようと試みた。
だから、すべての反響をフィルターなしに取り込んだと思います。
それがなんだ、ということだけど、行政の後ろ盾もなにもなく、まちに飛び込んでいったそのことは、まちにとっても本当は尊いのだと、ヨソモノのわたしは思ってしまいます。
権威のなさ、が尊いのだと。
そこに反射鏡のように地域は映し出されるのではないでしょうか。
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しかし最も、かの散開式にて感動したのは、彼ら3人への叱咤激励の来場者のコメントでした。
「手法に拙さはあった。はらはらしてみていた。でも一度の失敗で小さくなってほしくない。挑戦を続けてほしい。そうであるかぎり、助ける人はでてくるから」

自分自身にもとても響くいくつかの声に、思わず涙。
素敵なひとたちは確かにいるんだなあ、と久々に思えた時間でした。


その地域・組織・クラスターの内部にいては、発想できないことを発想してくれる人とどうつながるか?
それぞれが会話をしていける回路をどんなふうに組み立てていけるか?
つなぐこと、つなげること、簡単には可視化できない機能を担っているのは誰かを、メーンストリームの人間は気づくことができるのか?

もっというと、自治体内部の人間は優れたネットワーカーになっているか?ならなくていいのか?
で、同じ刃を自分に向けると、メディアの人間は優れたネットワーカーになっているか?ラクに話を聴ける、おなじみさんのところにばかり行っていないか?


寛容を基盤にして対話できたらいいのに。
寛容になれないのはなぜ?
なぜなんだろう。

閲覧数7,006 カテゴリNote コメント3 投稿日時2007/12/22 15:47
公開範囲外部公開
コメント(3)
時系列表示返信表示日付順
  • 2007/12/22 22:34
    いろいろ同感・・・

    寛容・・・
    比較ではなく、相対的でない絶対的幸福を願う社会。
    ひとそれぞれ違う価値観を認める社会。

    センセイ・・・
    ハムちゃん、ゆうやくん、センセイになりきらないきみたちであって欲しいなあ・・・
    次項有
  • 2007/12/25 01:08
    ゆうやさん
    「先生」にならないような、
    まちへの入り方を考えるようにしてます。
    そうありたいです。そもそも先生じゃないし。

    いつの間にか地元に混じって、
    それとなく仕掛けているような…
    口だけじゃなく、一緒に汗を流しながら…。

    というか、入り方というか、その入っていく人のマインドの問題だと思うんですけど。

    そもそもその「まち」についての専門家は、
    地元の人々なんだし。

    多主体参加のプランニングの重要な部分を
    ご指摘されていると思います。



    一人一人が創造的であろうとしたら、
    創造的なソリューションを創り出そうとしたら、
    自然(必然)と地元密着ネットワーカーになると思うし、
    寛容になると思います。


    まだまだ理念ばかりで、
    精神が根付いていないということでしょうか?



    (今回の件、いえないけど、いいたいことはあります…)
    次項有
  • 2007/12/27 23:17
    鉛筆hopeさん
    ゆうやさま

    コメントありがとうございます。
    いろいろとお話したいですね。

    わたしはどちらかというと、専門家を「つれてくる」ようにみえる、行政サイドのコーディネーター的な役割についてかなり不満だったのです。そもそもなぜこういうプロジェクトが必要なのかということについて、説明が不足している点などに。

    一緒に汗を流してくれる専門家を、わたしがこれまで知らなかったのだと思います。
    メディアも似たようなもので、所詮ヨソモノです。
    ある種の道化として、階層的には最も「下」(うまく表現できませんが)に位置しながら、周囲に溶け込んでいくしかありません。

    ゆうやさんのように、「そもそもその「まち」についての専門家は、地元の人々なんだし」とさらっと言える若い人たちが増えてくれるとうれしいです。

    次項有
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