Wiki記法というのは、一番、底辺では、XHTML、マークアップ言語に落とし込むということをしています。
なので、マークアップ言語そのものをタグでくくるのが面倒、けれど、構造化文書を楽に書きたいといったときに、役立ちますよ。
Wikiに慣れる、ということは、文章を、サイトを構造化することに慣れるということなのです。
きょうから本格的にお仕事が始まった。 でも抱負といえるものがない。 しいていえば、目の前のことをなるべく片付ける。 一人の時間をちゃんとつくって、手を動かす。 それから人にあって話をする。 人に会って話をして、そのままにしていると、なぜか不完全燃焼感がある。 アウトプットばかりしていると、やっぱり枯れてくるのだろうか。孤独な時間が必要ということを痛感。 自分自身と対話しつつ一人で考えるということ=書きつつ考える、ということを、ちょっと頑張るか・・・。 これを抱負(仮)にしておこう。 研修で毎週水曜日行っているDH@旧ハマボウル裏という専門学校。 3月末までに、ウェブサイトをつくる、卒業課題がある。 ついでぢゃということで、某フォーラムのサイトを卒業課題にしてしまおうと画策。 あさって水曜日、コンセプトシートを提出なのぢゃー。 不惑を過ぎて(!)CSSとXHTMLなるものを勉強するとはする思ってもみなかった。 (あ、ド素人レベルで、単にすみっこをかじっているだけですけど) だが、XHTMLを作っていくプロセスって、結局文章作成の作法なんだなあ、と感心している。 これまで自己流で実践していた記事を書く作法をすごくシステマティックにしているのがXHTMLという感じ。 まず、取材・収集した情報/コトバ/事実関係の中で、もっとも伝えたいことを考える。 そして、それをなぜ、いま、自分は最も伝えたいのか、ということをさらに考える。 それは、現在の社会的/地域的状況の中で、自分があつめた情報の位置づけを考えることでもある。 主観とある程度の客観の往還。 (ここがあやふやで明確に言語化されていないと、優先順位付けが揺らいで結局何を一番伝えたい記事なのかが自分にもわからず、ましてや読者はほとんどわからない、ひっかかりのないarticleとなってしまう) とっても乱暴にいうと、収集した情報を整理・分類=いわゆる編集/価値付け=していく段階で、HTMLでいうところの見出しレベルを意識する。その見出しがなぜ、自分にとってh1(最も大きな見出し)でありh2(2番目に大きな見出し)であるのかを、突き詰めて考えるということなんぢゃなー。 その昔、英語のパラグラフライティングの本を読んだときに、英語のテキストは、なんて明快な文章構造を持っているんだ、と驚き、感動した覚えがある。それはまるで、幾何の証明問題を解いていくような、論理的でわかりやすい構造になっている。 (数学で唯一好きだったのが証明問題であった・・・) XHTMLについて勉強したり、サイトマップを拙いながらもつくってみると、発信する文章全体の目的・骨格・構造をまず考える癖がつく。 というか、それなしには、ビジュアルデザイン=視覚言語が描けないのであった。 これって、情報を一つの大衆的な=だれでもある程度の理解可能なわかりやすい=メディアにしていくときの必然的な考え方なのかな、と今は思う。 (詩、とかはまったく違う目的、手法・・。対極ですな。どっちもわたくしには必要、必須ですが) それともW3Cなどなど、英語圏の世界標準に侵されてるのかなー。でも、わかりやすい、と感じてしまうのだよなー。 どこまでできるかわかりませんが、とりあえず、某フォーラムのサイトとしても実際に使えるようにしたいし、卒業課題としても提出したいものでする。不安だけど、挑戦ですら・・。 |