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2008年08月08日(金) 
もうすでに高校野球が始まっていて、球児にとってはその「人生」をも左右しかねない「勝ち負け」に全力を傾けている。「勝ち負け」を決めるのは得点という「数字」であり、その数字を作るのは人間(球児)の「動作」で、それを「評価」して「数字」に置き換えるのはやはり人間の「審判」ということになる。一度置き換えられた「数字」は「絶対」で、それをもとに「勝ち負け」は決められ、すべての人間はその「数字」に服する。高校野球に関わらず私たちはそれを繰り返して、「人生」としたり、生きてゆく「目的」としたりしているけれども、「勝ち負け」とは関わりなく暮らしている人たちもいる。「興ざめ」かというとそうでもなく、例えば勝った選手、負けた選手に関わりなく、その選手が自分が「好きか嫌いか」で「審判」して満足するという「見方」では、全く別の「評価」で選手が見られることになって、これが結構「数字」と比べても「厳しい」のではないか、と思ったりする。こうなると自分の国の、自分の郷里の、自分の町の、選手が「勝って」喜ぶのと同時に、果たしてその選手を「好きか嫌いか」で考えると「嫌い」なので自分の評価では少し「差し引く」ということをして、「愉しむ」ということになる。「負けた」選手にはその逆に「好き」なときなど評価に「上乗せ」したりする。そして、「他国」の選手にも同様に...そんなことで、「北京」に目を向けるのも、一興かと。
閲覧数4,221 カテゴリ日記 コメント2 投稿日時2008/08/08 13:08
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コメント(2)
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  • 2008/08/09 17:20
    スポーツを「プレイ」するという意味では「楽しんでやる」ことが前提のはずが、オリンピックなどの世界戦ともなると「国威発揚」の如く注目されるので、勝つ「権利」を持つ選手がいつの間にか勝利が「義務」になってしまい、スポーツの本質である「play」が「job」へと変わってしまうのが残念に思ってしまうのは私が捻くれ者なのかも知れないですが、「負け」の中にも必ず人知れず「ドラマ」が潜んでいることを忘れなければ、観る側の視野も拡がり、より楽しめるのではないかと思う次第であります。

    とは言え、自国の選手、地元の選手の頑張る姿は、なぜか自分自身と照らし合わせていて、日頃不甲斐なく感じている自分自身にどこか励まされ、観ていて誇らしく、気持ちの良いものです。
    次項有
  • 2008/08/09 19:01
    世の中に「勝ち負け」がある限りは、死ぬほど「勝ち」にこだわってもいいと思いますが、「私に敵はいない」などとは言わないで、誰だったか、「国威発揚」の明治の時代にも日本人には「惻隠の情」が確かにあって、負けたものを思いやる「らしさ」が、「他国」と違ってあったことを勝手に誇りに思っています。「負け」には「ドラマ」を当然に見ますが、「勝ち」にもその選手の「その後」を見て「ドラマ」を見たいものです。
    次項有
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