もう三十数年前になる。新宿紀伊国屋書店前で彼女と待ち合わせていたとき、「原節子の復帰のために署名を頂けませんか」と言われ、誰のことだかわからずに拒絶したことがある。署名を求めたその中年の男性は私の反応にいかにもがっかりした様子を見せ、去っていった。そのあとデートをしていたときにもそのことが気がかりで、そのため何年かかけて彼女のことを調べることになったけれども、小津安二郎の作品の中では「理想の」女性を演じ、成瀬巳喜男の作品では「現実の」女性を演じた原節子は、ますます「謎のひと」になっている。小津の死後「突然に」引退したといわれているが、彼女にとっては「突然」でもなんでもないのかもしれない。ひとに「惜しまれて」去って行っただけで、その人の「心の中」は誰にもわからない、と思う。私たちの世代では、もう一人「惜しまれて」去って行ったひとは「山口百恵」であり、いずれも「時代のひと」であり、人々が「求めた」ひとである。同じように、「山口百恵」の復帰署名を求められていたら、そのときは署名したかもしれない。原節子も山口百恵も横浜には「縁」がある。
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