もうすでに高校野球が始まっていて、球児にとってはその「人生」をも左右しかねない「勝ち負け」に全力を傾けている。「勝ち負け」を決めるのは得点という「数字」であり、その数字を作るのは人間(球児)の「動作」で、それを「評価」して「数字」に置き換えるのはやはり人間の「審判」ということになる。一度置き換えられた「数字」は「絶対」で、それをもとに「勝ち負け」は決められ、すべての人間はその「数字」に服する。高校野球に関わらず私たちはそれを繰り返して、「人生」としたり、生きてゆく「目的」としたりしているけれども、「勝ち負け」とは関わりなく暮らしている人たちもいる。「興ざめ」かというとそうでもなく、例えば勝った選手、負けた選手に関わりなく、その選手が自分が「好きか嫌いか」で「審判」して満足するという「見方」では、全く別の「評価」で選手が見られることになって、これが結構「数字」と比べても「厳しい」のではないか、と思ったりする。こうなると自分の国の、自分の郷里の、自分の町の、選手が「勝って」喜ぶのと同時に、果たしてその選手を「好きか嫌いか」で考えると「嫌い」なので自分の評価では少し「差し引く」ということをして、「愉しむ」ということになる。「負けた」選手にはその逆に「好き」なときなど評価に「上乗せ」したりする。そして、「他国」の選手にも同様に...そんなことで、「北京」に目を向けるのも、一興かと。
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