思えば4/1の朝、羽田空港の書店が開店するのを待って買ったのがこれ、天童荒太7年ぶりの長編、直木賞受賞作「悼む人」! 全くこの期間、読めませんでした~ と言うことでこれもこの流れの締めの作業の1つ、昨日から一気に読み始め、そして読了。 おいしゅう御座いました~ 私は2000年の「永遠の仔」に大感動をしているので待ちに待っていた長編。しかも勢い余って直木賞を取ってしまう。期待に胸膨らませながら拝読いたしました。 感想 素直に面白かったです。 まあ重い話の部類なんでしょうが天童荒太にしてはライトにさえ感じます。まあ「永遠の仔」に比べたら確実にライトです。でもこの主題に対してあのライトさが保ち続けたことは感嘆です。 やはり天童荒太は恐るべき作家です。 天童荒太の作品は「天童荒太の作品」なんですね。文体も切れ味があるわけでもない。構成は一見平凡。隠喩が洒落ているわけでもない。なのにここまで読ませてしまうこのテクニック。 天童荒太は恐るべき作家です。 この主人公・悼む人に関しては本当に成立させるのが難しかったと思いました。ちょっとでも気を抜くと突っ込みどころ満載、実は隙がありすぎる造形でしたが見事に最後まで立たせました。なんと言ってもそれが凄い。 当然編集者など含め出版前に散々検討されたであろう3本立てのそれぞれのラストシーンは私はうまくいっていると思いました。あの静かな畳かけは天童荒太がさらに人を掘った結果だと思います。 要は彼の作品は彼の「真摯」さが保障しているわけです。つまり作者の人格、或いはその人格を積み上げてきた時間が作品を保障しているという素晴らしい状況を得たのだと実感しました。 「悼む人」が崩壊しない1つの要因が「作者」であるとはとても演劇的です。そう言った意味で天童荒太は恐るべき作家です。 デビュー以降一貫して「傷」に関して書き続けてきた誠意なんでしょうかね。 「永遠の仔」で見せたラスト5ページでの心がひん曲がるほどの結末ではありません。しかしそれは見方を変えれば「劇画的」な訳です。映像にしやすいし、実際にテレビドラマ化されたとき病院でのラストシーンはイメージ通りでした。 しかし今回のラストシーンは心がひん曲がるほどの結末ですが、映像にしにくいでしょうね。それがまた素晴らしい。 執着を捨てた愛を選んだ2人に絡みつく透き通る蜘蛛。そこからエピローグのグラデーションは秀逸です。戒心した雑誌記者が幻覚ならば悼む人に抱かれたのも、彼岸から聞こえる赤子の泣き声さえ幻覚なのかも知れません。全てが幻だからこそ「悼む」という現実的な行為を見つめるべきでしょう。 「悼む」という行為は時間がかかります。 「悼む」という行為は面と向かいます。 「悼む」という行為は思いを馳せます。 「悼む」という行為はその人を思います。 こんなに何もかも「早く」なってしまい、熟成もせず、次から次へと消費することに着いていくことが「生きること」になってしまった世界でもっとしっかり悼んだ方が良いと言う思いに溢れてました。 もしラストが「永遠の仔」のように劇画で終わっていたら、背表紙までの中に収まる物語になっていたろうと思います。 あのラストシーンが秀逸なのは「悼む」という行為が今本当に必要なんだという思いが背表紙を閉じた風に乗り広がっているからです。当然作者達はこの立体的な構成を考えたはずです。そしてそれを行うのは至難の業に近く、そしてそれに挑戦し、出来ています。 やはり天童荒太は恐るべき作家です。 この立体的な構成と作者が希求する幸福の根源的な力が直木賞のステージに今作品をドロリと押したのでしょうね。とても素晴らしい作品でした。 天童さん、次はまた7年後でしょうか? |