青臭いといわれても、果たしてそれ=メディアコンバージェンス=は、「いま、ここ」を充実させる方向に機能するのかというところから、話をしたい。 メディアコンバージェンスが語られる文脈は、今のところプレイやーとその発言をみていると、あまりにもビジネス寄り過ぎて、表層的なところをふわふわしている感じがする。 たとえていうと、地域情報化ということばが10年前に意味したところが、ネットワークとハードウェアへの巨額投資だったころと同じ感じ。 生身の、メディアにさらされる人間、地域にとってはよそ事な感じ? メディアという、ことばはあいまいでとらえどころがない。 スライム、みたいなものだ。 ドラッカーさんは「利益は結果である」という。 満たされないウォンツを抱えた人に 満たすサービスや技術を提供する。 サービスや技術が、ある価値を提供し、そのインパクトが利用者の時間の使い方、生活スタイルを変えるとき、イノベーションがおきた、といえるのだろう。 わたしの出自は、新聞というひとつのパッケージされた情報の器をつくる企業だ。 その器の中の料理の味と、器の美しさが、誰かのウォンツを満たしていれば買ってもらえる。【見てもらえる】 満たしていなければ買ってもらえない。【見てもらえない】 器だけ美しくても料理がおいしくなければ次から顧客に選ばれることはない。 また、料理がむき出しにテーブルにおいてあるのでは触手はのびない。 情報の器を手に入れるのはとても簡単になったと思う。 この器がメディアなのか? 器を組み合わせることがメディアコンバージェンスなのか? で、料理は誰がつくるのか? おいしいといわせたい相手は誰で、その結果どんなヨノナカになるといいのか? まさか自分の所属する組織が栄え永らえること、という小さな目的ではないだろうと思う。 組織は手段なのだから。 ビジネスは手段なのだから。 何の手段かといえば、不満足な状態を満足な状態に持っていくための手段。 手段と目的を逆にしないよ、という意識共有が欲しい。 ドラッカーさんのいうように、利益は結果であり、目的ではないのだから。 今日はここまで。 この青臭い議論なしのメディアコンバージェンス論議は、わたくしにとってはあんまり意味がない。 そして、ローカルで議論する意味もあまりない。 メディアビジネスの隆盛=地域が元気になることと同義でないことが辛いところなんだなぁ。。 |