教室に通ってくる4歳の女の子のMちゃんは、自分の名前を書くときに時々左右が「逆転」している「鏡文字」を書く。字を左手で書くとか鉛筆を握り締めて「固まって」しまったのをあえて「直す」ことが、いいか悪いか場合によるけれども、英語も日本語もひらがなやカタカナそして漢字も、「標準的」な「かたち」がある場合には、それが「逆転」していると、他の人は「読んでくれない」ので、「直す」ことにしている。ところで、私たちは毎朝顔を洗うときに鏡の中に「自分」を見るけれども、例えば「右」の頬にほくろがある場合、「鏡の中」では「左」の頬にほくろがある「自分」が、こちらを見ている。ほくろの位置が違うので「自分」ではない筈なのだけれども、確かに「自分」の「自分」であり、「合わせ鏡」で確かめたくなる「自分」である。そのような「不思議」を、ルイス・キャロルは「鏡の国のアリス」で問いかけたけれども、Mちゃんがふと「鏡文字」を書くときなど、キャロルの「鏡の国」のような「別の世界」への「扉」をそっと出してくれたような「気分」になるのも、わるくはない気がする。
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