NHKのTV番組で「新日本紀行ふたたび」というのをやっていて、昔小学生のときに見ていた「新日本紀行」を一部再編集して何十年も前に登場していた同じ人がまた登場して、「歳月」の流れを身に沁みて感じる、という「体験」ができる。「歳月」は残酷なもので、昔青年だった人が老人となっていて、「あの頃」を振り返るけれども、果たして、昔のフィルムで「自分」を見せられても他人は自分だと見るだろうが、自分は「自分」として見ることができるだろうか...などと考えてみる。先日も古い香港の友人が横浜に立ち寄って、二十数年前に私と北京の一角で一緒に撮った写真を持ってきてくれたけれども、お互いの息子が写っているね、とごまかしておいた。彼は面白がって見せてくれたけれども、「懐かしさ」以上のことは求めていなかったことを、好ましく感じた。一度過ぎ去った過去のことを、もう一度やり直せたら、どれだけ満足がいくことだろうと思うけれども、それは「思う」こと以上に「ありえないことで」、ただそれができるかのように「過去」に近づきたくて、できる限り身の回りにその切れ端をかき集めては、過去に「似せて」憧れを強くする。それでも「過去」に自分を「置く」ことはできない。ひとの「ふたたび」という切実な「希求」にどうすれば近づくことができるのだろうかという課題は、漠然とした「明るい」未来を求めること以上に「現実的」で「味わい」はあると思うのだけれども。
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