勝ち負けは別として、監督自らが「WBCの日本チームは、イチローのチームだから」、ということを公言して誰もがそのことに納得をして、このイベントに参加をしている。勝ちを「獲りに」いくというようなことをいえばそれが「合言葉」になって、「結集」する。それがビジネスの場なら「リーダーシップ」というのかも知れないが、誰もが納得ずくでその流れに従う、ような「誠実な意欲」というものがその言葉や態度に溢れていて、人を(特に日本人を)惹きつける。しかし、当の本人にしても、監督が「イチロー」の、と言ったときの「イチロー」は、もう本人である「イチロー」ではなく、「イチロー」以上の「イチロー」が動き始めたときには、本人も面食らって、自分の「イチロー」がチグハグになったように第三者には「見えた」。それほどになにか「大きな」ちからが「動いている」気がする。「侍ジャパン」というまるで「今日的」でないようなネーミングにしても、誰が考えたのだろうか、スマートではないがなにより「日本的」で「ハマって(?)」いる。韓国のチームが日本にコールド負けをしたときには、自国のマスコミに「国辱」といわれていたが、それに負けないほどの「ちから」が日本では頭を「擡げている」ような、周辺である。
|