先日、東京日本橋の三越劇場にて、 「ふるあめりかに 袖はぬらさじ」の舞台を観ました。 有吉佐和子さん原作・脚本、水谷八重子さん主演の、 横浜は岩亀楼が舞台の物語です。 (有吉さんは、杉村春子さんのために この物語を脚本にしたらしい・・・)
横浜が開港して、今年で152年になります。 外国人が、ぞくぞくと開港の地 横浜にやってきて アメリカのゴールドラッシュさながら、日本全国からも 仕事を求め、一攫千金を求めた男達が群がる街になります。
そして遊郭が出来ました。
初めての遊郭は、今の横浜スタジアムの場所で、 港崎(みよざき)遊郭といいました。 その中で 最も華やいだ遊郭だった岩亀楼・・・ 舞台は、そこでの物語りです。
「岩亀」というと、横浜の方は耳にしたことも多いのではないでしょうか。 ふぐとうなぎのお店ですよね。 (かつて野毛や本牧の海岸~川では、ふぐやうなぎが沢山捕れたそうです) その本店が、横浜の戸部にあります。
すぐそこには みなとみらい ランドマークが見える場所です。
港崎遊郭は1866年(慶応2年)の冬、豚屋の大火で消失し、 そのあと二転三転してゆくわけですが、 明治5年に高島町に遊郭が移されたときに、岩亀楼も高島遊郭に移ってきました。
開港と共に栄えた造船業は、高島町にもありました。 桜木町ランドマークのすぐ傍に今でもその遺跡が残っています。 (三菱ノースドック) そして、港の発展と共に この横丁もかつては大賑わいだったそうです。
遊郭で働くお女郎さん達には 様々な病気がつきものでした。 病気になったお女郎さん達が、療養する場所だった岩亀寮というのが、 この岩亀横丁にあったそうです。 そして病気の治癒を願ってお女郎さん達が祈った岩亀稲荷。 今でもこの横町に 静かに残っています。
「露をだに いとう倭(やまと)の女郎花(おみなえし) ふるあめりかに 袖はぬらさじ~ 」と詩を詠んで自害したという 攘夷女郎の喜遊さんは、もしかしたら 後付の伝説かもしれません。 (有吉さんの戯曲はそういう話です) でも、その伝説?かもしれない話が、人々の心に訴えて 今でも語り継がれているのです。
このお稲荷さんを 地域の方々と護っていらっしゃるのが、 お隣のテーラーと喫茶店を長年経営されている 相澤さんご夫妻です。 (3代前からお守りされているそうです)
「岩亀稲荷を訪ねて来ました」といいましたところ、 奥様もご主人様も 岩亀横丁とお稲荷さんについて そして岩亀楼についても 色々とお話してくださいました。 *お参りに行かれたときには、軽くご挨拶するといいと思います。 お稲荷さんは、相澤さんの敷地内にお祀りされていますので。
お稲荷さんの入り口の灯篭は、花魁をイメージさせて創ったそうです。
日本髪を結って しなを作った花魁・・・ 言われてみると、確かにそんな風にみえてきます。 ご夫婦と地域の方々で 綺麗に護られているお稲荷さん。
今、横浜公園に岩亀楼の名残を示す灯篭が設置されていますが、 その灯篭は、南区の三春台にある 妙音寺でみつかったそうです。
テーラーを営むご主人によると、豚屋火事で多くのお女郎さんが亡くなった (その数は400人とも500人とも言われています)そのご遺体を、 山のお寺に葬ったのではないか・・・妙音寺もそのひとつだったのではないか・・・ そして 誰かが忘れてはいけないと岩亀楼の灯篭も一緒に運んだのだろう・・・ということでした。 今でも 毎月25日には 妙音寺のお坊さんがいらして お稲荷さんにお経を上げてゆくそうです。
テーラーのご主人のお話が心に染みました。
「港で発展した横浜。その表舞台を演出した数々の男たち。 その影には、喜遊さんのようなお女郎さんの存在があったはず。 表もあれば裏もある。それが街の発展であり、 人間の本質なのではないか・・・ お女郎さんの中で、ある人は病に倒れ、ある人は大儲けをしただろう・・・ そんな女性達の影の活躍を忘れてはいけない。。。」
そう語るご主人のお話に 頷くワタシです。
在りし日の岩亀楼(高島遊郭時代)の写真(ご主人がみせてくれました)
岩亀横丁・・・ 初めて訪れたその場所は、なんだか懐かしく 本来の 横浜らしさに触れたようなところでした。 |