今日で5月もおしまいです。
一昨日の29日は 横浜大空襲のあった日です。
今から67年前 米軍機による空襲で、横浜の市街地は焼け野原になりました。
この日には 同居の義母がいつも同じ言葉を朝から言います。
「あの日は、出かけるのが本当に嫌だったのよ、だって朝から警戒警報が鳴っていたんだから・・・ 」
私が現在住んでいるこの地も 焼け野原になった場所なんです。
義理母は、その日は軍事工場にイヤイヤ行って
そして中区の山下町近くで空襲に遭ったのです。。。
下駄を履いた足で夢中で逃げて、辿り着いた場所は山下公園だったと。
たまたま近所の年上の知り合いに会い、一緒に手を繋いで帰路を急いだそうです。
道端にはおびただしい 黒焦げの遺体・・・
「コレは現実なのか? 何なのか?」
12歳だった少女は 頭の芯が痺れたような 色も匂いも失った世界を歩いて
家も町も 朝とは全く変わってしまった場所に佇んだそうです。
そして その日から、全く変わってしまった現実の生活が始まったのです。
横浜空襲の公式の発表は 死者3650人。
しかし実際には、1万5千人を超える行方不明者と死者だということです。
29日、90代のお爺ちゃんの早朝ケアを終えて 大通り公園を通ると
阪東橋の「平和記念碑」にて 遺族の方々の偲ぶ会が行われていました。
近くの小学校の生徒達が、先生と一緒に 千羽鶴を持ってお参りに来ました。
私も行ってみました。
「どうぞどうぞ・・・慰霊塔の中もみてください」 といわれたので、
昨年同様に中に入らせて戴くことに。
亡くなられた方々のお名前(1000名)
同じ苗字が並んでいるのが目立つ・・・
一人の女性が 「家は5人でした」 と言われました。
家族全員が亡くなったお宅も多くあると・・・
1歳から70代まで。。。お名前の下に年齢の数字が入っていました。
「会長です」と言われた女性の方が、
「この辺りから、黄金町~久保山の方にかけて多くの犠牲者が出たんですよ。」
と言われたので、
「はい、存じています。午後に西中町の普門院で行われる慰霊法要に行ってきます。」と言いました。
私が気分転換を兼ねて ちょくちょく飲みに行く黄金町。
67年前の横浜大空襲の時には、沢山の死者が出た場所です。
電車から降りた人たちが 線路で・・・
そして 川に飛び込んで亡くなった人も大勢いるときいています。
黄金町近くの西中町にある「普門院」では、毎年慰霊の法要が行われています。
今年は義理の母もぜひ行きたいというので、一緒に行きました。
お友達は既に来ていて・・・
お線香の匂いが流れて ご住職達の読経も聞こえています。
一昨年 去年は本堂でしたが、今年はお地蔵様の前での法要でした。
私たちは 黄金地蔵に集まっているやもしれぬ 多くの亡くなった御霊に祈りました。
鎮魂のために 駅の傍に建てられた「黄金地蔵」が
このお寺に移って来られたそうで、 今も手厚くお守りされています。
ご住職のお父様も このお寺と地域の方を守ろうとしていて
このお寺の境内で亡くなられたそうです。
お寺の階段付近でも亡くなった方々がいらしたそうです。
義理の母は、お地蔵様にお参りしながら 涙を流していました。
参加されたお婆ちゃんやお爺さんが、当時のお話をしてくださいました。
お婆ちゃんのお姉さんは とうとうご遺体が見つからなかったそうです。
「私が生きている間は この日はけして忘れてはいけないと思っています」
といわれていました。
その日の夜は 参加したお友達、そして慰霊法要に参加したかったけど
仕事で出来なかったお友達も加わって
岩亀横丁の市民酒場「常盤木」で一杯。
お一人を除いて(その方も3歳でほとんど記憶にはないそう)誰も戦争を知りません。
でも 忘れてはいけないことだよね、と話しながら、こうして美味しいお酒を飲んで
語れる幸せを 噛み締めた夜でした。