というわけで、後半その②も書いておくさ~
その②
*~*~~『根岸の監獄・堀割川・美空ひばりの町』~~*~*
八幡神社から堀割川沿いを歩いて行くと、歴史を語るプレートが
この川沿いにかつて「根岸の監獄」と呼ばれた刑務所があった
写真左の塀
2m半ぐらいの高塀で、もちろん中は見えない
川沿いには桜並木があり、時期には多くの人出が(絵葉書にもなった)
関東大震災のときに、罪人の解き放ちがあり 1000人中700数人しか
戻って来なかったそうだ。。。
残る300人余りの・・・その後の人生はいかに?
横浜の中心部・・・吉田新田の話は、、、横浜の方は小学校で習い ます。
(前の日記 「お三の宮日枝神社」の中で 吉田新田のことを書きました)
開港前の横浜
釣鐘状の部分を埋め立て干拓したのが、吉田勘兵衛でした。
完成した 吉田新田(南一つ目が沼地だった) その吉田家の9代目が、堀割川の工事を自費で行ったの明治の初め。
~プチ横浜の歴史・堀割川工事~ (忘れたくないので・・・長いですが)
明治3年、神奈川県知事より 堀割川の工事を自費負担で行う者があれば許可する
という布達があった。
吉田新田を先祖が拓きその大地主となっていた吉田家
新田は開港のあと、横浜の政治・商業の中心地となり 大いに栄えていた町だった
今こそ、ご先祖の偉業と意思を 自分の代でも行うべきだと資金を投じた吉田家9代目
この運河を通す目的は二つ
1・・・吉田新田の沼地である「南一つ目沼」を 掘った土で埋めること
2・・・横浜の浜(滝頭)に波止場を造ること
しかし、その工事は難儀を極め(新田のときと同じですよね)、
思いの他の日数と予算がかかってしまったそうです。
居留地のアメリカ人、ウォルスホールから借り入れをし、国際問題にまで発展したと。
多くの人足が必要となり、現在の磯子や南区の各村から出稼ぎに来る農家の人がいて、
その人たちの生活に潤いをもたらしたということはあるのだろう。
当初予定より日数も予算もかかり、明治7年の末に完成
吉田家は借入金を返済するために自分の土地も売り、
埋め立てた土地も県に取られてしまった・・・
大地主だった吉田家は 大きな損失をし多くの資産を失ったそうだ。
そういう悲劇の川でもある・・・と、ガイドさんが切々と語ってくださいました。
この話は、小説にもなっているとのこと・・・「悲愁の川」著・榛葉栄治
そんな悲劇の川だが、横浜の発展には大いに貢献し
川沿いには、「麒麟ビール」のビン工場、堤磯右衛門の石鹸工場、
ヘルムブラザース商会の造船所「ヘルムドック」などが出来た。 また 運河の流通により物質の流れがスムーズに 結果、吉田新田の町にも活気が出たことだろう。 ヘルムドック跡 ヘルムブラザース商会が作った
(艀やだるま船の造船、修理を行った)
日本の国民的スター☆美空ひばりは磯子の滝頭出身
磯子は 美空ひばりとゆずを生んだ場所である。
ひばりさんのご出身「滝頭」は「たきがしら」と読み・・・
かつては滝があった・・・とか、滝頭塚という鎌倉武士の塚(元は古墳)があった・・・とか、
「龍の出る場所、龍の頭がみつかった」・・・とか、色々伝説めいたことが語り告がれている。
ひばりさんが通った「滝頭小学校」
確かに・・・滝が瀧(りゅう)になっている
ひばりさんが生まれたお家が 今もそのまま残っています(現在も人が住んでいる)。 ご実家の魚屋さん「魚増さん」は、ご親戚がやられている 魚増さんがある 丸山日用品市場
ひばりさんが幼い頃に通った
銭湯「桜湯」が今も残っている
滝頭はどこか懐かしい雰囲気・・・
そんなこんなで後半も歩きつつ・・・ ガイドさんと丸山公園で休憩をとり、お礼を云ってお別れデスm(__)m そして 空を見上げると 鱗雲が・・・
龍が私たちを歓迎してくれているのかしらん♪
とまたまた長くなって ラストはその③に続く~~~
ツアーはまだ続くのでした(長すぎ?じゃないか!)^_^;
~~~m(__)m