「桜木町」という名前も悪くはないが、そこから横浜に向かってバスに乗ると「紅葉坂」、「雪見橋」、「花咲橋」とまことに「心地よい」名前が続き、「高島町」となると急にビジネスライクな「音」になる。街の名前は、その場所の「事情」と「理由(わけ)」持っていて、高島町という名前がなぜそこに残っているか調べれば納得するけれども、その前に私たちの会話やバスで流れる「音」に、まず気分よくさせられると、その街に住んでいることがうれしくなる、のは「個人的な」ものだろうか。その街に住んでいると会話の中で使う土地の名前が「音」として飛び交い、人と話しているうちに話していること自体がまるで「歌っている」ように自分にも他人にも聞こえて、「気分のよい」会話が続く。仮にも「○丁目」という数字だけの「音」が流れる会話をしなければならない「街」は、「住みにくい」街、のような気がする。「街づくり」というものは「音づくり」であるかも知れない、と思うのは言いすぎか...
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