書き込み数は8件です。 | ◀▶ |
つい最近のことだと思っていたのに、もう三十年近くも前のことになるのだと思ったTV番組のひとつに、カール・セーガンが創り自らも出演していた「コスモス」がある。その頃テレビは、ハイビジョンでもデジタルでもなかったが、その映像を観たときは衝撃的で、私たちにとって「宇宙の広がり」は頭の上をはるか遠くまで想像するのと同様に、自分の身体の中の微細な細胞の「果て」にも「宇宙」が広がっているのだということを教えられた。セーガンは、主にこの宇宙には人間以外の生物が必ず存在するということを、その後の映画にもなった「コンタクト」でも言いたかった、のだと … [続きを読む] |
「元町」を歩いていると確かに愉しいけれども、「伊勢佐木町」を歩いていると「落ち着く」という気分の違いがある。三島由紀夫は傑作「午後の曳航」で「元町」を描き、大仏次郎は「霧笛」という小説も映画も残したけれども、霧笛楼という「元町」のレストランに自分の名残りを留め、それぞれが似つかわしい。しかし、「元町」と「伊勢佐木町」とどちらが「新しい」かというと、私なりには「伊勢佐木町」の方が「新しい」ように思え、「今」の横浜を感じる。数年前に歩いた頃よりもいっそう「外国語」が溢れ、限りなく「多国籍」になってゆく街が、関内の外国人たちと共に栄 … [続きを読む] |
「おふくろさん」の歌詞の改作で森進一を叱っている川内康範は、私たちの世代では、「月光仮面」の原作者以外の何ものでもない。今から思うと「奇妙」としかいいようのないコスチュームで、白いバイクに乗りどこからともなく現れ、「どくろ仮面」や「マンモスコング」を相手に一人で闘う。途方もない筋書きなのだけれど、「まぼろし探偵」や「少年ジェット」、「鉄人28号」にしてもその筋書きは「非現実的」以外の何ものでもないが、子どもの「世界」はたちまち主人公たちと共に「現実的に」拡がる。「夢中」というのはそのことで、映画も芝居も生きている「現実」とは別(私 … [続きを読む] |
「勝ち負け」を気にし始めると、何か「都会的な」匂いを感じ始めるのは、私だけだろうかと思う。人が集まって優劣を競い、「勝つ」ことの満足を得て、自分の立場を確かめる。むろん田舎でも「勝ち負け」はあり、田舎で「勝ち」を収めると、より人の多い「都会」に出て、さらに「勝ち負け」を続けてゆく、ということが自分のこれまでにもあった、ような気がする。それをその人の「進歩」というと、ただ「勝つ」ことが「進歩」になり「負ける」ことは「退歩」ということになる。ところが人生よくしたもので、反省というのは「負けた」ときにしか訪れなくて、多くはその反省を … [続きを読む] |
A.マッケイの「トーマス・グラバー伝」を読んでいて、以前イギリスの会社にいた頃のことを思い出した。マネジメントの人たちは、当然にイギリスから派遣されていて、日本での契約期間が終わると多くは米国や香港や中近東の、関連子会社のある他国へ「流れて」行った。その様子を見ていると、いっこうに自国に帰ろうとせず、「旅」を果てしなく続けていくように見えた。イギリスといってもいわゆる「連合王国」を一口には言えないが、なぜか私にはその「国」の人たちの、なにか「共通の」流れ方が目についてしまった。グラバーも日本人と結婚し、家族を日本で「創り」、日本で … [続きを読む] |
テレサ・テンが死んだとき私は香港にいた。仕事で打ち合わせ中に、小さなオフィスの人たちが、テレサの死を伝えるテレビのニュースを見て、騒然となった。そのとき打ち合わせは打ち切られた。それほど香港の人たちにとって、彼女の死は「大事件」だった。日本では、「つぐない」や「愛人」や「空港」などいわゆる「日本の歌謡曲」で人気を不動にしていたが、台湾生まれの彼女が、香港や中国本土で人気があるということは、微妙に、日本でのものと「異なる」ニュアンスを持つものであることを香港では感じていた。当時、テレサの歌は台湾と香港と中国を確かに「繋いでいた」 … [続きを読む] |
中学生になったばかりの頃、「座頭市」と「眠狂四郎」の二本立てを映画館でやっていたので、学校の帰りだったか帰ってからだったか、観に行った。翌朝驚いた。学校の学年集会があって「中学生が一人で映画に行ったものがおる」と「生活指導」教師の「注意」のような話が皆の前であった。どうも私の話のようだった。それによると「座頭市は、身体(目)が不自由ながらも自ら困難を切り抜けて生きてゆく。これはよろしい。しかし、眠狂四郎(そのニヒリズム?)は見習わぬ方がよい。観に行ってはいかん」と訳のわからぬ「説明」をした。いうまでもなく「座頭市」は勝新太郎の … [続きを読む] |
元旦の翌日夜に、桜木町から野毛を抜けて大岡川沿いに伊勢佐木町へと歩いた。静かだった元旦から少しずつ街が「目覚めて」来ているのを感じた。それにしても、光の多い表通りではなく「裏道」を何気なく選んで歩いていて、寂しさ感じるよりも「心地よかった」のはなぜだろうか。別に悪いことをして後ろめたいことがある訳でもない。足元は明るいのでもなく、人通りがなく、ただ離れている街灯が行く先を教えてくれるだけの小径を歩いていて、満足してしまうのは喜んでいいものか...物陰から野良犬や野良猫がひょいと飛び出せば静寂が破られるということになるのだけれども、 … [続きを読む] |
◀▶ |