梅雨に入って、本当に雨が降り続けていますね~
昨日も今日も一日雨の横浜・・・
これからの訪問の移動のことを考えるとちょっと…いや、かなり憂鬱です。
今朝、同居の義母と遅い朝ご飯を食べているとき、
義母は「あぁ・・・もうすぐだ。」といいました。
「何がもうすぐなの?」ときくと・・・
「66年前の朝、私は警戒警報が鳴って『行くのか嫌だ!』とだだをこねたのに、
父親も母親も、『いつものことなんだから我が儘言うんじゃないよ!』と言って・・・
しぶしぶ山下町の軍事工場まで行ったのよ。
工場ではミシンを踏んでいたから、 空襲警報が鳴ってもミシンの音ですぐにわからない、、、
ドキドキしながら、外に立つ警報の旗ばかり気にして仕事にならなかったあの日・・・
お昼近くに旗が立ったのよ~!」
そう、今日は横浜が米軍によって空襲を受けた 横浜大空襲の日です。
義母がもうすぐと言ったのは、その空襲を受けた時間のこと。。。
12歳だった義母は、埼玉の親類の疎開先から戻ったところで、
学校がまだ始まらずに軍事工場に行かされていたそう。
12歳でもそういうことをしていた時代だったんですね。
いつもチャリで通る 横浜大通り公園
地下鉄の上1,2キロMに渡って 公園ができています。
かつて ここは新吉田川という川であり、今でも橋の名前があちこちに残っています。
私が日常的に買い物をする「横浜橋」 そして最寄の地下鉄の駅は「阪東橋」です。
その阪東橋の地下鉄の駅近くに 横浜大空襲の慰霊碑 「平和祈念碑」が立っています。
本日通りかかると、お花が手向けてありました。
私が近づくと、どうぞ碑の下もご覧ください、とそこに居た女性に言われました。
今まで碑の下が何になっているのか知りませんでした。
どうぞ、どうぞ、とすすめられて中に入ってみました。
そこには沢山の方々のお名前が彫ってありました。
お写真撮ってくださいな、と言ってくださったので撮りました。
女性は、
「ここには1000人のお名前が彫ってあります。ご覧ください、赤ちゃんからお年寄りまで、
あらゆる年代の方がいらっしゃるでしょう?」
本当に・・・
「横浜大空襲で亡くなった方は、4000~6000名と言われていますが、実際には行方不明で判らない方々もいるので、10000名はいらっしゃるでしょうね。私の叔母も行方不明で遺体もわかりませんでした。」
その方はそう言われました。
「この辺りから、黄金町~久保山の方にかけて多くの犠牲者が出たんですよ。」
「はい、きいております。今から黄金町の近くの普門院で行われる慰霊祭に行くのです。」
そういうと、そこにいらした皆さんが、
「それはご苦労様です。ありがとうございます。」というので、お聞きすると
皆さんは遺族会の方々でした。
私が日常的に気分転換を兼ねて 家事を終えてひとり飲みに行っている黄金町。
66年前の横浜大空襲の時に、ここは沢山の死者が出た場所です。
黄金町の近く、西中町の「普門院」というお寺で行われた 慰霊祭に
今年もご近所のお友達と5人で参加してきました。
2時半にお寺に着くと、既に読経が始まっていました。
ご住職のお話で、年々お参りにこられる人が減って行くと・・・
確かに去年は20名ほどいたでしょうか。
今日はお天気のせいもあるのか、私たちの他にはほんの数人でした。
鎮魂のために 駅の傍に建てられた「黄金地蔵」が このお寺に移って来られたそうで、
今も手厚くお守りされています。 ご住職達はこのお地蔵さんにもお経をあげました。
多くの大切な命が奪われた戦争。
3月11日に起きた東北の大震災もそうですが、
そのときまで日常を過ごしていた人たちが、一瞬で消されてしまう。。。
無念だったでしょう、悲しかったでしょう。
知り合いの霊能者にお聞きすると、黄金町は2000年過ぎた辺りに
一斉に魂が救われたということ。
私にはよくわかりませんが、それが本当で亡くなった方々が成仏されたなら幸いだと思います。
でも、起きた事実を忘れることなく、悲劇の後で復興して行った街や人々の暮らし、
その底力を思いつつ、
今起きている日本のことにも思いを巡らした 横浜大空襲の日です。
*地図は、平和祈念碑のある場所