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2009年11月07日(土) 

訪問介護ヘルパーの仕事は、出会いと別れの繰り返しです。
特にご高齢者の訪問は、別れといえば施設へのご入所等もあるけど
永遠のも・・・

お別れをすると、時期に次の担当の方が決まり
新しい出会いが待っています。そして、その方が住む街との出会いもあるのです。

「新規の訪問をお願いします~」
高齢者の訪問事業所の主任から、依頼がきました。
場所は、本牧エリアの西之谷町とのこと。
主任とご挨拶に伺う予定になり、数日前の午前の仕事が割りと近くだったので、
午後の寿町ボランティア入りの前に 下見に行くことにしました。

柏葉というところから、本牧方面にチャリを走らせていると
去年と今年、永遠のお別れをした利用者さんお二方と一緒に通った
病院やスーパーが道なりにあって・・・
なんだか胸がいっぱいになってしまいました

待ち合わせのバス亭「千代崎町」・・・横浜で有名な「喜月堂」のすぐ近くでした。

本牧という名前は、1442年の記録にみられるそうで、元は「本目」と書かれていたそうですが、語源は不明。
元々は漁村でした。
幕末に黒船でペリーがやってきたとき、本牧十二天のオレンジ色の崖を
その色から「マンダリン・ブラフ」と呼んだそうです。
本牧の断崖は、横浜港に入る各国の船の目印になっていたそうです。
また、本牧から根岸にかけての海岸を「ミシシッピィ・ベイ」と呼んで、
外国人はその風光を愛したということ。そこに別荘を構えたのが
三渓園を造った原富太郎(三渓)ですよね~。

(とここまで来て思い出したのが、
横浜を愛する作家、山崎洋子さんの書いた「赤い崖の女」です。
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2143496

魚村だった本牧・・・そして遊郭、異人達・・・
横浜の歴史小説として、とても楽しめる作品ですよ~


第二次世界大戦の敗戦後は、本牧十二天を含む本牧の中央部がアメリカに接収されて
フェンスに囲まれました。
柳ジョージの「フェンスの向こうのアメリカ」は有名です☆
それから、本牧といえば東京人も憧れるアメリカンな場所として
日本中にその名を知らしめたわけです。

´82年に返還されたあとは、高級住宅地、公団、マイカル本牧などになって、
横浜の中のお洒落なエリアとなっています。
が、昔ながらの通りや商店街、古いお店もがんばっています。


千代崎町は本牧の中央からは少し離れた、山手寄りの場所です。
せっかくなので、ここら辺で昼ご飯を食べようと裏通りに行ってみました。
常に表でなく、裏に~~~^^;

すぐ近くには、この地域の神社 「北方皇太神宮」がありました。
天照皇大神を祀っています。
かなり歴史のある神社のようです。



これからこの地に伺うことになるので、ご挨拶をしました(^^)

近くにとてもレトロな中華料理屋さんがあったので、入ってみることに



昼時なのに、誰もいなくてちょっと不安でしたが・・・
お店の中もいい感じで、頼んだ「上海焼きそば」も美味しかったです(¥850)
ほどなく、ご近所さんがいらしてお昼を食べていました。

まだ時間があったので、ちょっと辺りを散策

遠く、サンモールの塔が見えました。
近くに、君が代由緒の地「香妙寺」があったので、ちょいと一休み。



こちら、日本吹奏楽発祥の地でもあるらしいです。
(維新時に駐屯した薩摩藩兵が吹奏楽に取り組み、英国の軍楽隊長が君が代を作曲したとのこと。しかし、この曲は日本人に合わず、後に雅楽調に作り変えられたということである。)

帰りは森林浴をしながら、行きの階段でなくだらだらな坂を下りてくると
さっきのサンモールの塔がみえました。
和洋折衷の風景は、横浜らしいですね~ と思いつつ、

喜月堂で買った麩まんじゅうを食べて~ 

またチャリに乗って麦田のトンネルをぬけて元町~寿町へ~~~

お疲れ様でした~ワタシ!


閲覧数1,857 カテゴリ日記 コメント4 投稿日時2009/11/07 15:35
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